愛に生きる。

ずっと一番になりたかった自分

こんばんは。

心理カウンセラーのみらいです。

 

先日、根本裕幸さんの「お弟子限定リトリート」なるものに参加してきました。

 

リトリートセミナーとは、

一人フォーカスパーソンを決めて、その人の悩みを共有しながら集団心理を扱って全体の癒しを進めていくというもので、わたしがとても大好きなセミナーです。

 

今回、わたしは

「一番にならないと気が済まない」

という悩みについて、シェアさせていただきました。

 

ここからは、包み隠さず、わたしのことをお話ししたいと思います。

 

 

わたしは物心ついたときから、何においても自分が一番でなければ気が済まない子でした。

 

 

仕事でも、恋愛でも、

自分が一番であることに意味や価値があって、自分が二番手だと感じると、一気に自分には価値がなくなってしまったような、自分よりも上にいる人にはものすごく輝かしいものがあるのに、自分は何も持っていない空っぽの人間のような、そんな感覚になっていました。

 

仕事についても、なにも能力や業績だけではありませんでした。

まわりから可愛がられたり、愛されたり、自分よりもチヤホヤされて目立つ人がいることが、なによりも苦痛で、嫌だと感じていたように思います。

 

恋愛でも、例え相手が一番大切にしてくれていたとしても、少しでも自分が二番手かもと不安になることがあると、一気に孤独に突き落とされてしまったような、 誰ともつながりがないような感じがしていました。

 

 

だからこそ、自分はどの分野においても常に一番でなければなりませんでした。

 

そして、その一番争いには終わりがありませんでした。

 

一度一番になれてしまえばそのことには満足しますが、他に自分が一番でない分野を探しては、その分野でも一番であろうとしました。

 

そうやって、いつもいつも自分より上を探しては、常に一番であり続けようとしました。

そして、そうでなければ、自分を保つことなんて、出来ませんでした。

 

自分よりも目立って愛されて、可愛がられて。輝いていて、一番でいる人には、ドロドロした嫉妬心がわきあがってしまって、素直に相手の良さを認めることができませんでした。

 

そして、素直に相手の良さを認められないそんな自分はなんて汚くて、愚かで、惨めな人間なんだろうと落ち込み、

そんな自分はやっぱり無価値で、だめで、空っぽな人間なんだと感じていました。

 

そして、この「一番にならないと気が済まない」という思いがあるせいか、わたしの中にはずっと「虚無感」と「孤独感」がありました。

 

心の中が何も埋まっていなくて空っぽのような気がして、悲しさも深く感じられなければ、楽しさも嬉しさも心から感じることができず、自分が周りからは切り離された世界にいるような感じさえしていました。

 

自分に対する虚しさがいつしか人生に対する虚しさに変わっていって、

「生きていたって楽しくない」

「なんのために生きているのか」

「こんな人生をこれからも歩まなければならないのか」

という思いを感じることがありました。

 

そして、その虚しさが

「もう消えてしまいたい」

そんな思いと繋がるようになっていました。

 

 

そして、「つながり」というものも、いつからか感じられなくなっていました。

 

周りから見たら、わたしは友達が多くて、つながりがある人のように思われることが多いような気がしています。

 

でも、本当のわたしは、

その場で盛り上がったり楽しんだりすることはできるけれど、本当の意味で楽しめていないというか、心は満たされないままその場にいるような感じでした。

気を紛らすことのできる楽しい時間が過ぎたら、またいつもの空っぽな自分にもどるだけ。

 

その場の空気に合わせて存在することはできるけれど、誰ともつながりを感じることはできませんでした。

 

触れたら物理的な温かさは分かるし感じられるけど、それだけで、心があたたかくなるような感覚が、わたしにはわかりませんでした。

どれだけ大好きな人の隣にいたとしても、なぜか孤独でした。

 

つながりって、なんだろう。

そう思えるくらい、わたしにはつながるという感覚が、よくわかりませんでした。

 

常に満たされることがない心。

少しでもそれを満たすために一番になってきましたが、それを繰り返していくうちに、

「たとえ一番になったとしても、本当の意味で満たされることはない」

ということにも気が付いていきました。

 

悔しいから二番手には絶対になれないけれど、一番になっても満たされない自分自身に、

もうどうやって救いの手を差し伸べたらいいのかも、わからなくなっていました。

 

もうやめたいと頭ではわかっているのに、どうしたらいいのかわからない。

 

そんなぐるぐるとした感情が、リトリートのちょうど2週間前くらいから急に出てきて、次第に自分の生活に影響を与えるくらいまで主張が激しくなっていきました。

 

日に日に苦しさと虚しさと孤独感が強まっていって、そんな痛みと向き合うことができず、逃げ続ける日々を送っていました。

 

まるで、自分が「今ここ」に居ないような。

自分とのつながりさえも感じられずふわふわしているような、自分だけが切り離されて一人違う世界で生きているような、そんな感覚を味わっていました。

 

そんな風に、わたしは、

「一番にならないと気が済まない」

「一番でない自分は空っぽで何もない」

「自分や人生に虚無感を感じていて、消えたくなってしまう」

「誰とのつながりも感じられない」

「誰といてもずっと孤独」

そんな内容を相談しました。

 

 

そしてやはり、根本さん曰く、

一番であり続けようとすることには際限がないこと、

それを続けた結果燃え尽きてしまって消えたいという思いがでてくること、

空っぽだから比較競争するのではなく、比較競争しているからこそ空っぽだと感じてしまうこと、

一番でい続ける人は孤独で、周りが全員敵になってしまい、つながりを感じられないことということを教えていただきました。

 

 

一番になることをやめたら、虚しさを感じなくなるよ。

一番になることをやめたら、心が満たされるよ。

一番になることをやめたら、自分のことを空っぽだと感じなくなるよ。

一番になることをやめたら、つながりを感じられるようになるよ。

 

そんなことを、教えてもらいました。

 

でも、

”一番になることをやめる”

きっと、そうできたら良いんだろうけども、それができなかった私にとっては本当に難しい内容でした。

 

「この中から何人か選んで」

ワークに移るとき、そう言われました。

 

 

・自分よりも嫉妬深い人

・自分よりも孤独な人

・自分よりも醜い人

・自分よりも腹黒い人

・自分よりも無価値な人

 

 

根本さんに指定された内容は、自分が見たくなかった、自分の奥底にいた「本当の自分」でした。

 

選んだ5人に並んでいただいて、

「この人達を見てどう感じる?」

そう言われた時、涙が溢れて止まりませんでした。

 

怖くて、見ることができませんでした。

悲しいとも悔しいとも違う、「怖い」という思いでした。

 

皆さんはわたしのことを見てくれているのに、わたしは見ることができない。

わたしはそんな自分の本当の姿を見ることが、本当に怖かったのだと初めて知りました。

 

そして、怖くて見られないからこそ、見なくて済むように、一番であり続けてきたのかもしれません。

 

5人が囲む真ん中に行くよう、指示されました。

 

見たくなかった自分。

知りたくなかった自分。

触れたくなかった自分。

誰にも知られたくなかった自分。

 

 

本当は、誰よりも嫉妬深い自分。

本当は、誰よりも孤独な自分。

本当は、誰よりも醜い自分。

本当は、誰よりも腹黒い自分。

本当は、誰よりも無価値な自分。

 

 

そんな自分がいることを、知りたくなかったんです。そして、そんな自分がいることを、誰にも知られたくなかったんです。

 

そんな醜くてダメな自分は、存在してはいけませんでした。

だから必死に、取り繕って隠してきました。

 

誰よりも一番であることで、そんな自分を見なくて済みました。

誰よりも一番であることで、周りからもそんな自分を隠すことができました。

 

 

でも、今自分の周りを、そんな「自分」が取り囲んでいる。

 

ああ、これが「わたし」なんだ。

 

5人に囲まれながら、嫌でも実感しました。

嫌でもその存在を認めざるを得ませんでした。

 

「ここに堕ちたくないから、比較競争をし続けてきたんだよね。」

 

「”比較競争”とは、上にいくのではなく、”自分がこれ以上悪くならないように”するためのものだったんだよね。」

 

この根本さんの言葉が、本当に心に刺さりました。

 

ただでさえ、何も持っていなくて、価値も魅力もない自分。

そんな自分が、それ以上”悪くならないように”ずっと一番であろうとしてきたのだと思います。

 

だから、たとえ一番になったとしても

満足することも、誰かとのつながりを感じることも、孤独から抜け出すことも、比較競争を手放せるわけでもありませんでした。

 

そんなふうに、良い感じに絶望感を感じていたら、突然、

別で選んでいた「アホな人(※褒め言葉です)」がわたしだけを連れさらって、

これも別で選んでいた「みんなから愛されている人」のところまで連れて行ってくれました。

 

突然のことで、このプロセスが何を意味するのかは、わかりませんでした。

 

5人を置いて、5人から離れて、わたしだけが「みんなから愛されている人」の目の前にいる。

でも、不思議なことに「みんなから愛されてる人」の目の前にいるはずなのに、"何かが違う"ような感じがしていました。

 

そして、そこから後ろを振り返って、遠くにいる5人を見たとき。

感じたことが、ありました。

 

「そんな5人が愛おしい」

 

5人を置いて、自分だけ「みんなに愛される場所」に行った時、わたしはその5人をここに連れてきてあげたいと思いました。

わたしだけが来るのは違う、と思いました。

 

その5人のことが、本当は心から大好きなんだと感じました。愛おしくて、大好きで、大切な存在。

 

そう感じたとき、

"なんだ、わたし、本当は自分のことが大好きだったんだ。"

そう思いました。

 

見たくもなかった自分のダメだと思っていたところが、本当はとても大切で、大好きで、愛しいと感じていたんだと知りました。

 

「本当は、あの5人のことを、助けてあげたいんだよね」

 

根本さんに言われたとき、本当にそうだ、と思いました。

 

取り残された5人を見て、助けてあげたい、救い出してあげたいと感じました。

皆もここに連れてきてあげたいと、感じました。

みんなも、愛されてる存在なんだよと、そう教えてあげたいと思いました。

 

あの5人の元に、戻りたい。

もう、孤独にさせたくない。

 

 

そして、根本さんから言われました。

本当は、分かっているはずです、と。

 

「本当は、孤独じゃないこと。」

「本当は、醜くないということ。」

「本当は、自分には価値があるということ。」

「本当は、そんな自分が愛されてるということ。」

 

それを聞いたとき、また思わず泣いてしまいました。

怖くて見てこなかっただけで、自分の中に在るものは、本当はそうだったのかもしれないと思いました。

 

「一人一人、自分がいる場所に連れて行ってあげて、”あなたは愛されているんだよ”ということを、教えてあげてください。」

 

そう言われて、わたしは一人一人を「みんなから愛されている方」のところに連れて行ってあげました。そして、一人一人、ぎゅっとだきしめてつながっていきました。

 

最後、全員で抱き寄せあった時、涙が溢れて止まりませんでした。でも、それだけじゃなく、みんなの顔を見たいと思う自分がいました。

そして、みんなの顔を見て、泣きながらも笑顔でいる自分がいました。

 

わたしが在りたかった在り方とは、これだったんだと思いました。

 

ダメだと思っていた自分の存在を認めて、そんなあなたはもう愛されているんだよとずっと伝えてあげたかったんだと思いました。

 

そして、みんなで抱き寄せあったとき、全て自分が許されたような、そんな気持ちになりました。

 

自分の中にこの5人がいて、この5人と共にいれてよかったと、感じられた瞬間でした。

この5人が自分の中にいることが、誇らしくも感じられました。

 

そして「アホの人(※褒め言葉です)」は自分の中のシャドウのシャドウだということで(ここは難しいので割愛します)、そのアホの方ともぎゅっとハグをして、満たされた気持ちで終わりました。

 

ここでセッションは終わりかと思いきや、

もう一人、追加で呼ばれた方がいました。

 

「誰ともつながりを感じられない」

 

そう悩んでいたわたしに与えられた、

今までのプロセスを踏んできたからこそのワークでした。

 

「その方に、大好きという思いを伝えて、心を開いてください。」

 

ダメな自分のことを愛し、許せるようになった自分だからこそ、どこかスッキリした気持ちもあり、大丈夫だと感じていました。

 

 

でも、結果は、ことごとく失敗しました。

 

どれだけ伝えても、伝わらない。

信じてもらえない。

はねのけられてしまう。

拒絶されてしまう。

 

嘘じゃないのに。

どうしたらいいんだろう。

どうしたら、相手に伝わるんだろう。

 

そんなことを考えながら、

色々な方法で相手に伝えていました。

 

でも、ダメ。

相手にどうしたら伝わるのかを真剣に考えていたとき、ふと、気づきました。

 

 

"これ、わたしだ。"

 

 

そう感じた瞬間、また涙が止まりませんでした。

愛を受け取ることを拒絶した目の前にいる存在は、他の誰でもない、「わたし自身」でした。

 

わたしはこうやって、誰からの愛も受け取らないと、ずっと拒否し続けていたんだと心から実感しました。

 

相手の想いを信じられず、受け取らず、誰にも近づかせたり、触れさせようとしない。

 

近づいてきたら離れて、手をのばそうとしてきたら払いのけて、抱きしめられようとしたら、突き返していました。

 

怯えて、怖がって、自分の心を相手に開いてたまるかと、頑なに心を開こうとしてきませんでした。

 

わたしはずっと、そうやって、誰からの愛も受け取らないと決めていました。

わたしはずっと、そうやって、自分から切って、誰とのつながりも持とうとしませんでした。

 

自分では認識できていなかった自分と初めて対峙し、その存在を強く感じました。

 

 

そう感じた瞬間に、

"どうしたら相手に伝わるんだろう。"

という思いから、

"自分が心を開いて、自分のことを信じて、自分の愛を以ってつながること"

に意識が変わりました。

 

そうしたとき、自分の中で確実に何かが変わったような気がしました。

自分の中に芯が通ったような、自分の中の深くに落ち着いたような、そんな感じがしました。

 

信じてもらえなくていい。

わたしは、大好きです。

 

わたしは、もう、大丈夫。

そんな気持ちが言葉となって溢れてきました。

もう、大丈夫。

もう一度、そう言って、確かめました。

 

そして、最終的に、受け入れてもらうことができました。

そして、そこには、今まで感じたことのない、心のところでのあたたかさを感じたような気がしました。

 

もしかして、それを「つながり」と言うのかなと感じました。

 

そして、もしかしたらですが、結果はどちらでも良かったのかもしれません。

結果がどちらであっても、わたしのその時の気持ちは変わることはないなと思いました。

心を開き、自分を信じ、愛をもってつながりを感じることとは、そういうものなのかもしれないなと思いました。

 

そして、ワークが終わった後、沢山の方が、わたしのもとに来てくださいました。

抱きしめてくださり、よく頑張ったねと言ってくださいました。

 

わたしは、こんなに愛されていたんだと、今までには感じてこられなかったつながりを少しずつ感じることができるようになっていました。

 

そして、リトリートが終わってすぐですが、日常生活でも周りからの愛やつながりを少しずつ感じることが増えてきました。

 

ずっと自分が拒絶していただけで、本当はずっとそこにあったのかもしれないと思いました。

 

そして何より、

自分がだめだと思っていた5人のことが愛おしくて、その5人のおかげでわたしはまわりとつながりを持つことができたり、

わたしという人間がより人としての魅力を持ち、愛をもって輝くことができるのかもしれないと思いました。

 

最後に、今回のリトリートでわたしの心に残った言葉を、ご紹介しようと思います。

 

言葉の持つ力は偉大で、こうやって残したり伝えたりすることで、今悩んでいる誰かの何かひとつのヒントになればいいなと感じています。

 

・「自分が自分でも愛せない部分、大嫌いな部分だからこそ、パートナーに愛してもらう」

 

この言葉を聞いた時、人がパートナーを選び、共に歩んでいく真髄、あたたかさが、ここにあるような気がしました。

 

 

・「自分の弱さをさらけ出すことで、それが輝やく才能になる」

 

今回、自分が隠してきた自分を開示するというワークがありました。

前に出て、隠してきた自分を告白している仲間を見たとき、とても人として美しくて、なんて魅力的なんだろうと感じました。

 

 

弱さとは、強さなのかもしれません。

 

弱さが人に優しさを与え、人とのつながりを生むのかもしれません。

弱さがその人の人としての輝きを増すのかもしれません。

弱さとは、とても美しいものなのかもしれないなと感じました。

 

これからも、また戻ったり進んだりと、そんな波にゆられながら、生きていこうと思います。

 

そのときに、今回感じたつながりやあたたかさを頼りにしながら、進んでいきたいなと思っています。

 

そして、そんな自分を通して、今後も何か提供できるものがあれば、とても嬉しいなと感じています。

 

長くなりましたが、最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。