愛に生きる。

トラウマ(自分を苦しめる「自分自身」)から本当の意味で解放されるには

こんにちは。

心理カウンセラーのみらいです。

 

今日は、トラウマとそこから生まれた「自分自身を苦しめ続ける感情」から本当の意味で解放されるには、ということについて、お話しようと思います。

 

「ありのままの自分を認めましょう。」

「嫌な感情を抱いてしまう自分も自分。そんな自分が存在することを許して認めてあげましょう。」

 

心の世界について勉強していると、本当によく、こんな言葉を耳にします。

つい先日わたしが書いたブログ記事内でも、似たようなことをお話しました。

 

 

今、自分はこの「トラウマ」や、そこから生まれた「感情」で苦しんでいて、はやくこれらを消して楽になりたいのに。

「そんな自分を認めて、そんな自分が存在することを許しましょう」とか、そんなきれいごとを言われても、それで本当に自分は「ラク」になれるのか。

この苦しさから、本当の意味で解放されることはあるのか。

その存在を認めてしまったら、その存在が消えて無くなることはないのではないか。

 

このような不信感というのか、疑心暗鬼の気持ちが出てきたことのある方は、きっとたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。

 

この記事を書いているわたし自身も、こういった言葉を聞くと、

どこかきれいごとを並べられているような、

論点をずらされているような、

根本的な解決にはつながっていないんじゃないかというような、

そんな疑いの気持ちをたくさん感じてきました。

 

 

今日は、「そんな負の感情をもつ自分自身を認めて、存在を許してあげましょう」という言葉の、その裏にある本当の理由についてお伝えできればなと思います。

 

まず、

「トラウマ」や「それによって生まれた自分を苦しめ続ける感情」

を認めるということは決して、

「そんな自分に屈して、一生そのままでいる」ということではありません。

 

 

それは、「心の綱引きから手を放す」ということなのです。

 

 

今のあなたは、心の中で「過去のトラウマから生まれたお化け」と全力で綱引きをしています。

 

「こんな感情を抱く自分なんて大嫌いだ!」

「どうにかして早くこのお化けを倒して、完全に消し去らなきゃ!」

 

そうやって、あなたは歯を食いしばって、一生懸命に綱を引っ張っています。

 

でも、そうやってあなたが強く引けば引くほど、相手(トラウマから生まれたお化け)も同じ強さで引き返してきます。

あなたの両手は綱で塞がり、足も踏ん張り、意識のすべてが「このお化けをどう倒すか」に集中していきます。

あなたは動くことも他のことをすることもできず、ただただ、気力や体力や時間だけがそのお化けとの綱引きに奪われていきます。

 

もし、あなたが今、過去のトラウマやそこから生まれた感情に「窮屈さ」「不自由さ」「何とも言えない苦しさ」を感じているとしたら、

その正体は「トラウマとそこから生まれた感情」だけではなく、

実はこの「綱引き(終わりのない自分との戦い)にすべてのエネルギーを奪われている」ことが重なって、感じていることなのだと思います。

 

 

「認める」というのは、お化けに負けて引きずり込まれることではありません。

「認める」とは、ただ綱からパッと手を離すことなのです。

 



綱から手を離したら、どうなるでしょうか。

「トラウマから生まれたお化け」自体は消えません。

綱の向こう側にまだ立って、あなたをジッと見ているかもしれません。

 

でも、あなたの両手は、もう自由になっているのです。

「お化けはまだそこにいるけれど、もう戦うのはやめた」

そう気づいた時、あなたは自由になった両手で、自分のために温かいお茶を淹れることもできるし、自分の好きな本を読むこともできるようになります。

 

「本当の解放」とは「存在を消すこと」なのではなく、

相手の存在の有無にかかわらず、

自分が「自由でいられること」「選択権が自分にあること」なのです。

 

もちろん、「トラウマから生まれたお化け」自体はそこにいるわけですから、

また急に恐怖心が涌いてくることがあるかもしれません。

突然土砂降りの雨が降って身動きがとれなくなってしまうことがあるように、

自分の意思とは関係なく、急に感情がまた湧いてくることがあるかもしれません。

そしてそれ自体は、すぐにはどうすることもできません。

 

でも、そうやって雨の存在を認めるということは、

「天に向かって怒鳴って責める」ことをやめるということです。

 

「その存在を認める」ということは、

雨が降ってきたことを責め、止めようと必死になることをやめて、

雨が降ってきたのなら傘をさして、安全な建物の中に移動して、

温かいお茶をいれたり、お気に入りの毛布にくるまったりして雨が過ぎるのを待つ。

そんな、雨の中でも自分が穏やかな時間を過ごすことができる、

その自由な選択肢を得ることができるということなのです。

 


私たちはつい、

「本当の解放=トラウマによるお化けがこの世から完全に消滅すること」

だと思ってしまいます。

 

だから、完璧に消し去ろうとして、苦しくなってしまいます。

 

でも、本当の解放とは、

「お化けが部屋の隅に座っていても、私は私の好きなことができる(綱引きをしないでいられる)」

という状態のことなのです。

 

「恐怖心がでてくる自分も、まぁ自分の一部だよね。仕方ないか」

 

そうやって自分に白旗を揚げて、自分と戦うのをやめた時。

あの息が詰まるような窮屈さは嘘のようにスッと消えていきます。

 

 

それでも、

「どうして完全に消し去って、綺麗さっぱり無くすことがゴールじゃないの?」
そう思ったりしますよね。

 

あんなに自分を苦しめ、大好きな人との関係をギクシャクさせる厄介なものなら、

跡形もなく消し去りたいと願うのは痛いほどよくわかります。

 

わたしも、過去の自分のトラウマをきれいさっぱり消し去って、

何もないまっさらな自分で生きられたなら、

どんなにラクで、平和で穏やかで楽しい時間を過ごせたのだろうと、

自分も誰も傷つけずに済むことができたのだろうと、

そう、何度も何度も感じてきました。

 

 

それでも、なぜ「その存在を消そうとすること」が本当の解放ではないのか。

 

ひとつは、自分の過去は決して「なかったことにはできない」からです。

 

きっと、この記事を読んでいる人は、何度も実感されてきたのではないでしょうか。

どれだけ頑張って消そうとしても、本当の意味で「消し去る」ことなんてできない。

一時的に蓋をすることはできたとしても、その事実を無いことにするなんて出来なかったということを。

きっと、その事実にぶち当たる度にもがいて、苦しい思いをされてきたかもしれません。

 

自分の過去は自分の心の中から「消し去る」ことはできないのです。

ただ、過去のトラウマへの感情を「変える」ことはできます。

それが、自分を知り、それを通じて相手を知るということ。

「事実は変えられないけれど、真実は変えられる」

ということなのです。

 

そうやって、トラウマ自体を癒していくこと、自分の心や自分の人生における視点を変えることはできます。

 

人がトラウマとそこから生まれた感情に苦しむ時。

上にも書きましたが、そこには2つの苦しみがあります。

 

それは、

「トラウマ自体の苦しみ」

「トラウマから生まれたお化けを消そうと綱引きをすることで生まれる苦しみ」

です。

 

トラウマ自体への視点を変えることはすぐには難しいですから、

まず自分ができることとして、

その存在を消そうと綱引きするのをやめ、

まず、自分がその存在から自由になりましょう。

その存在は消すことはできません。

だからこそ、その存在の有無にかかわらず、自分は自由に選択できる状態になるのです。

 

そして、トラウマ自体の向き合い方については、

またお話していこう思うのですが、

自分と向き合い自分の感情を許していくことで、

過去のトラウマ自体に対する視点が切り替わって、

それが巨大な嵐を起こすものでもなくなっていく。

そのおかげで、得られたものがあるというような、

自分の人生において、その意味を変えていけるような、

そんな視点の変化と、そのことからの解放を

自分自身でつかみとっていくことができるのです。

 

 

あなたが消し去りたいと思っている「トラウマから生まれたお化け」。

その正体は、得体の知れない悪者などではありません。

 

過去のトラウマの出来事の中で「悲しい」「怖い」「私も捨てられるんじゃないか」と部屋の隅で震えていた、あの頃の小さなあなた自身です。

 

もし「このお化けを完全に消し去る」ことを目指してしまうと、

それは「あんなに傷ついて、必死に耐えてきた過去の私なんて、いなかったことにしてしまう」ということになります。

しかも、本当の意味で消し去ることなんてできないので、いつまでもその自分の存在を否定し続けることになるのです。

自分の心の中で、常にその自分の存在を消そうと、戦争し続けているようなものです。

 


本当の解放とは、この戦争を終わらせることです。

 

「あんな過去があったんだから、そう感じてしまう自分がいるのも当然だよね」

「部屋の隅に座ってていいよ。もうあなたを追い出そうとしないから」

 

そうやって、お化け(過去のあなた)の存在を許し、居場所を認めてあげた時。

面白いことに、お化けは安心して、スッと小さく、大人しくなります。

 

お化けがこれまであんなに巨大化して暴れていたのは、あなたが「消えろ!」と攻撃してくるから、必死に抵抗していただけで、

「ここにいてもいいよ」と許可された途端、お化けはもう暴れる必要がなくなり、ただの「静かな影(過去の思い出)」に変わります。

 

「消す」のではなく、ただ「戦う(綱引きする)」のをやめること。


それが、あなたが自分の人生の主導権を取り戻し、「好きなことができる」ようになるという本当の解放なのです。

 

そして、もうひとつ。

 

今回、自分のトラウマと向き合うことについて。

それをどうにかしたいと思った出来事があったはずです。

仕事でも、恋愛でも、友人でも、お金でも、趣味でも。

なにかそのトラウマを乗り越えたいと思う理由があったはずです。

 

過去の自分のトラウマやそれに伴う痛みがあるならばば、

それを回避して生きていこうとするのが一般的なのだと思います。

 

でも、なにかのために、過去の自分のトラウマと向き合ってまでも乗り越えていきたいと思ったのなら、そこまでして諦められないものであったのなら、それは、自分・自分の人生にとって、本当に大切なものだからなのかもしれません。

 

そこに、その人が本当に歩いていきたい道や、掴みたいライフワーク、その人自身が本当に大切にしたい価値観が、反映されているのかもしれませんね。

 

 

とりとめのない文章になってしまいましたが、また、腑に落ちる形で書くことができたなら、ブログにまとめようと思います。

自分を裁くのは、いつだって「自分」

こんばんは。

心理カウンセラーのみらいです。

 

 

今日はタイトル通りなのですが、

自分を裁くのはいつだって「自分自身」なんだと感じたので、

そのことについてお話しようと思います。

 

 

わたしたちはよく、

「誰かに傷つけられた」という言葉を使います。

誰かがこう言ったから「自分は傷ついた」と。

 

 

また、「きっと相手はそう感じるだろう」→「だから自分はこうしたんだ」と、

自分の行動理由を相手のせいにすることだってあると思います。

 

 

家事をしないやつなんて、なんてダメなやつなんだと、

きっと相手は感じるだろう。

 

そう思うから、きちんと家事をする。

 

 

仕事ができないやつなんて、職場にいる資格がないと、

きっとみんな思うだろう。

 

そう思うから、

日々定時を超えてがんばって働いたり、

時にはがんばって見えるように工夫したりもして、

なんとか目に見える成果も残しながら、自分がここに居ていい理由を探そうとする。

 

 

その場の空気感に合わせられないなんて、つまらない人間だ。

きっと友達はそんな風に思うだろう。

 

そう思うから、みんなの意見に合わせて、輪の中に居ようとする。

そうやって、自分が輪の中に居てもいい理由を、探そうとする。

 

 

こんなに嫉妬深い自分なんて、嫌われるに決まってる。

きっと相手はそう思うに違いない。

 

そう思うから、相手の前では気にしていない、物分かりの良い自分を演じて過ごしている。

そうやって、相手の隣に居てもいい理由を、探そうとする。

 

 

ポイントは、相手がそう感じるだろうと思っているのは

「自分自身」だということなんですよね。

 

 

わたしたちは日々、こんなふうに、

「こんな自分はダメだ」

「こんな自分は嫌われる」

「こんなことをしてはいけない」

そうやって、自分自身にダメ出しをし続けているのです。

 

 

そして、そう思っている部分を誰かから「指摘」された時に、

「傷ついた」「傷つけられた」という感覚になるのです。

 

もし、自分がそのことについて本当に何とも思っていないのであれば、

心はそこまで大きくは反応しません。

 

 

もし、相手から何か言われて自分の心が大きく傷ついたときは、

本当は自分がそうやって自分自身を裁いているということ、

その出来事は自分の心の「投影」でしかないのだということ、

そんなことを気持ちが落ち着いた時に考えてみると、

自分のことをより深く知ることができるのだと思います。

 

 

わたしの知人で、最近仕事をやめた方がいます。

許可をいただいたので、その方のお話をしようと思います。

 

その方はもともと朝から晩まで、土日祝日関係なく仕事をしていたほどの仕事人間だったのですが、数年前から自分が本当にやりたいことがそこではないのかもしれないと思うようになり、長年無理してきたこともあって燃え尽き症候群にもなり、色々タイミングも重なって仕事をやめることになったようです。

 

その方は、仕事をやめるかやめないかの時期で、燃え尽き症候群も重なっていたのでしょう。今までのように熱量がでなくなったり、心も体もついてこれなくなって、思ったように成果もあげられず、仕事ができなくなってきた時に初めて感じたことがあったようなんです。

 

それは、

「みんなから評価されているように感じる」ということでした。

 

ちゃんと仕事をしているか、みんなから見られているような気がする。

少しでも手を抜こうとすると、誰かに注意されているような気がする。

なんの成果もあげられない自分は、ここにいてはいけない気がする。

こんなダメな自分は、みんなからもダメだと思われている気がする。

 

周りからそんなふうに見られて、評価されて、裁かれているような気がして、

不調な自分をダメな奴だと周りからも責められているような気がして、

休もうにも休まらない、と話していました。

 

でも、

「自分ではそう感じているのだけれど、実際に誰かにそう言われたことは一度もないんだよね」とも話していました。

 

誰からもそうやって評価されたことも、言われたこともなく、

実際にそう感じているのは、「自分自身」だけなのだと。

逆に、相談した人たちからは、労りの声や共感の声もあったと言っていました。

 

「でも、まるで周りからそう裁かれているかのように、自分では思ってしまうんだよね」

そうとも言っていました。

 

そしてその方が言っていたのは、これはなにも自分が不調になったから感じるようになったのではなく、「もともと自分がそう思っていた」ということに気が付いただけなんだということでした。

 

もともと自分は、

「ちゃんと仕事をしない自分はダメだ」

「成果をあげない自分はここに居る資格なんてない」

「熱量を持ってこの仕事をできないのなら、やめた方がマシ」

そうやって、もともと、自分自身を監視しながら、評価しながら、過ごしていたのです。

そして、今の自分がそこに適わなくなったから、それがまるで周りからの視線や声として心の中で再現されて、まるでみんなから裁かれているように感じるようになったのです。

 

でも、その時はそれに思いを向けたり振り返る余裕もなく、自分自身の中に在る裁きの声に打ちひしがれながら、残りの体力や気力を駆使して、ぎりぎりのところを滑り込んで休職に至りました。

倒れなくて本当に良かった、と感じています。

 

そして、休職してからは家に籠って休む期間となりました。

ぐったりとして、一日中寝ているような時間の連続で、

外出する気分にもなれず、何も食べたいものも浮かばず、

お腹もすかず、お酒も飲む気にもなれず、

毎日、お昼過ぎに起きてはなんとかソファーまで歩いて行って、そこでまたバタッと寝る。

そんな、ベッドとソファーの往復をしているだけの日々を過ごしていたそうです。

 

「自分はこんなにも疲れていたのか」

 

体の疲れなのか、心の疲れなのか、そのどちらもなのか。

たまに開けた窓の外から聞こえる風の音や鳥の声を聞きながら、そんなことをぼんやりと思っていたようです。

 

そして、次にその方に襲い掛かってきたのは、またしても「裁きの声」でした。

 

仕事もしていなくて、お金も稼いでいないのに、家事もしないなんて。

そんなやつ、嫌われるに決まっている。

そんなやつ、ここに存在する意味がない。

パートナーは言わないだけで、絶対に心の中で、「仕事もしていないのに。ただぐうたらして。」と思っているに決まってる。

そんな自分は呆れられて、絶望されて、捨てられる。

そんな声がささやき始めました。

 

おそらくここには、自分への罪悪感も大きく関わっていたのでしょう。

その方は、別にパートナーにそんなことを言われたわけではなかったそうです。

逆に「今はゆっくり休むときだから、家事なんてしなくていい。ちゃんと休んで。」とまで言ってもらっていたそうなのです。

でも、その方はそうは思えなかったんですよね。

「そんなこと言ったって、心の中ではそう思っているに違いない」と、

家事ができない自分、家事をしない自分に対して、「自分」が裁きを下していたのです。

 

だからしばらくは、居ても立っても居られなくなって、家事をしていたそうです。

自分がここに居てもいい理由を自分にあげるために、

自分を裁く声が納得するまで、家事をしていたそうです。

 

でも、周りが知ってそれを止め、それを知ったパートナーからも、

「家事をして欲しいなんて言っていないし思っていない。ちゃんと休んで欲しい。」

と何度も伝えられ、話し合いをしたことを経て、ようやく、

そうやって自分を裁き続けていたのは「自分」だったのだと、

改めて知ったということでした。

 

 

その後、その方は何度も何度も自分と向き合いながら、少しずつ、その「自分を裁く声」からも距離を置けるようになり、今は自分の好きなことを探しながらゆっくり休めているとのことでした。

 

自分を裁く声というのは、

自分の中に一人の「裁判官」がいると、イメージしてもらえば分かりやすいと思います。

 

その裁判官が、なにかしらリスクを察知しては、

カンカンカンと警笛を鳴らして、

「こんな自分じゃダメだ」

「こんなことをしてはいけないんだ」

「こんな自分は存在してはいけない」

と、そんなふうに自分を裁き続けます。

 

でも、この裁判官は、なにも自分を罰するために存在するのではありません。

この裁判官が生まれた理由は、なによりも「自分を守るため」だったのです。

 

過酷な過去の出来事を通して、

もう二度と、あんな思いは繰り返したくない。

もう二度と、あんなことを経験したくない。

そう強く願えば願うほど、そのリスクを絶対に回避するために、それくらい強く警鐘を鳴らす裁判官が、自分の中に生まれてくるのです。

 

その裁判官が自分の中に存在する理由は、そうでもなければ、あの時の自分はあの過酷な環境を生きながらえ、存在し続けることが出来なかったからかもしれないからです。

 

そしてそのリスク回避のための警鐘を、無理やり止めることはできません。

止めようとすればするほど、「またあの辛い経験をしても良いのか」と、その警鐘はさらに大きくなるだけです。

でもそれは、わたしたちが、自分の心を護るためにしていることなのです。

 

だからこそ、そのときやるべきことは、

その「裁判官」が存在することになった経緯を含め、その全てを許すことなんだと思います。

それくらい、自分は辛かったんです。

それくらい、しんどい思いをし続けてきたんです。

そんな自分を守るためには、自分にあの時と同じ二の舞を演じさせないように見張ってくれる存在が必要だったんです。

 

だからこそ、その時自分が自分にかける言葉は、

「あれだけ辛い思いをしたのだから、そう思ってしまうのは仕方ないよね。」

「そりゃ、そう思ってしまうよね。」

そんな、自分自身の人生を理解し、自分の今を許すものであって欲しいと感じています。

 

そうして自分をヨシヨシしていると、次第に自分の気持ちを他人にぶつけるのではなく、自分に自分の気持ちを委ねることができるようになっていきます。

自分がそう感じてしまう上で、そう感じてしまうのは自分の問題だと分かった上で、自分がどうしたいのか、どうしたらいいのかが見えてくるようになりますし、

自分が関係性を築いていきたい相手との間で、試行錯誤しながら自分たちだけの関係を築いていくことができるようになっていきます。

 

そんなすぐに上手くいくものでもないし、きれいにいかないこともあるけれど、

そんな未来へ近づいていく。

自分が過去のしがらみの苦しさから解放される未来があることを心の支えにして、是非一歩踏み出してみてもらえたらと思います。

 

愛する人に、自由に「転ぶ」権利を与える ~相手を信じる・自分を信じるということ~

こんにちは。

心理カウンセラーのみらいです。

 

愛する人

子供、親、恋人、夫婦、友人、職場の人など

 

そんな、自分にとって「大切な人」が、

失敗したり、惨めな思いをすることって、嫌ですよね。

 

誰だって愛する人には健やかで幸せに生きていて欲しいもの。

だからこそ、心配な思いや上手くいって欲しいという思いを抱くことは自然なことのようにも思うのですが、

 

例えば、その気持ちが行き過ぎてしまったり、相手が望んでいないのに干渉しすぎて拒絶されてしまったり、相手の問題なのにまるで自分事のようになってしまって熱くなってケンカに発展してしまったり、相手の問題を通して「過去の自分の傷」が疼いて、あの頃感じた嫌な思いを勝手に一人で味わう羽目になったり、

 

そんな、「相手の問題」をまるで「自分の事」のように感じてしまい、

自分の不安や心配を相手に投影して、過干渉になりすぎてしまうこと。

リスクを先読みしすぎて、相手が自由に「転ぶ」権利というものを、相手から奪ってしまうということ。

 

こんな「自分と相手の問題の境界線があいまいになってしまう」ということが、日常的に起きてしまっている、頭のどこかでは「やめたい」と思っているのになかなか「やめられない」という方はいるでしょうか。

 

これらはもちろん、相手を愛する故の行為であることは間違いないのですが、

それが行き過ぎてしまうと、執着となり、癒着となり、自分にとっても相手にとっても、どこか不自由で「息苦しい」関係性となってしまうこともあるんですよね。

 

わたしは最近、

「転ぶ」という、一見痛くて泣けてきて嫌なことであったとしても、

それをする「自由」が、愛する相手にはあるのだということを感じるようになりました。

 

 

わたしの親の話になりますが、わたしの親は過干渉な部類だったのだと思います。

親だからこそ、愛する子のことを思うと、心配が勝つのでしょう。

それは小さい頃は「親だからこそ」と思って受け入れられてきたのですが、

大人になった今でも、まるで小さい頃と同じように、相手の心配や不安を押し付けられて干渉されることがありました。

そして、わたしが「転ばない」ように、リスクを先回りして、未然に防ぐようなことをされることもありました。

 

小さい頃は何とも思っていなかったのですが、

大人になってから改めて親の過干渉な行動を見たときに感じたのは、

「わたしは信じられていないんだ」という思いでした。

 

 

その「信じる」とはなにも、

「わたしが成功することを信じる」ということではありません。

 

 

「たとえ失敗したとしても、この人なら大丈夫」

「たとえ失敗したとしても、この人なら絶対にまた立ち上がって、人として成長できる」

という、どんな結果になろうと、「相手の可能性を信じる」ということです。

 

 

「もういい加減、わたしのことを信じてよ」

そんな思いが溢れてきて、そう、親に伝えました。

 

それと同時に、もうひとつ感じたことがあります。

それは、それまで「転ぶ」といった、一見嫌で避けたいことであったとしても、

本人がそれを受け入れているのであれば、誰にでも「自由に転ぶ権利」というものがあるのだということです。

 

そしてそれこそが、その人がもつ「自由」のひとつだとも思いました。

 

自由に「転ぶ」権利というものは、

愛する相手にも、わたしたち自身にも、あると思うのです。

 

 

もちろん、相手から「転ばないために」どうしたらいいのかアドバイスを求められたら、転ばないためのアドバイスをしてあげたら良いのだと思います。

 

でも、相手がいろいろなチャレンジをしてみたい、転んでもいいから、自分が思うように、望むようにやってみたいと思って進んでいるときは、相手のことを「信じて」、時には転ぶことだって、自由にさせてあげたらいいのではないかと思うのです。

 

 

そして、こんなことを考えていた時に、

「信じる」ということについても、少しだけわかったことがありました。

 

心理学の世界では、

「信じる」と「期待する」は違うよ、という言葉を、よく耳にします。

 

愛するパートナーに対して

「あなたのことを信じている」

という言葉を使うのをよく耳にすると思いますが、

 

この「信じる」とは、「あなたが浮気しないこと」を信じるのではありません。

それは、「信じる」ではなく「相手が浮気しないこと、自分のことを裏切らない」ことを「期待」しているのです。

 

心理学の世界での「信じる」とは、いわば、

「人の気持ちは移ろいゆくもの」であることや、もっというのであれば、「将来浮気をする可能性は0ではない」ということも受け入けた上で、

「それでもあなたは大丈夫だ」となるのです。

 

難しいですよね。

悟りを開くレベルの話なのではないかとも感じてしまいますが、

人を「信じる」とは、

「相手が成功することを信じる」「自分の期待に応えることを信じる」のではなく、

どんな結果であったとしても、「相手なら大丈夫だ」と思えることなのではないかと、最近は感じています。

 

 

そして、そんな境地に達する前には、

「自分を信じる」ということを、先に腑に落とすことが重要になってくるのだと思います。

 

「自分を信じる」とは、

「自分はなにがあっても大丈夫」と思えることです。

 

自分で自分に「転ぶ」自由を許してあげるんですよね。

成功していないと価値がない、のではなく、

自分がやりたいことを突き詰めていく中で、

そのプロセスの中で、良いことも、嫌なことも、どんなことが起きても

「自分なら大丈夫」「自分なら、例え転んだとしても、また自分の力で立ち上がって進むことができる。幸せになれる。」と、

自分の底力を「信じる」ということなんだと思います。

 

成功や富や名誉など、

条件付きでなければ自分を信じることができないのではなく、

自分を信じるとは、「無条件」のものであり、自分という人間そのものを信じる、ということなのだと思います。

 

そして、自分を信じるためには、

自分にはなにが起きても大丈夫、と思えるためには、

自分の「安全基地」を自分の中にしっかり置くことが、大切なのだと思います。

 

自分の安全基地が「他者」にあると、他人軸になります。

自分に安心できる場がないので、自分のことなんて、到底信じられません。

相手の言動で、自分の感情や幸せが左右されるようになります。

自分の幸せを崩したくない恐怖から、相手をコントロールしようとします。

でも、それがうまくいくわけではないことを知ると、恐怖心や不安、思い通りにならない相手への怒りで関係性を壊してしまうこともあります。

 

 

自分軸、ひいては安全基地を自分の中に作ることで、

自分への信頼を勝ち取ることができるようになるのです。

 

 

そしたら、「安全基地」を自分の中に作るためには、どうしたらいいのでしょう。

 

これは、自分が自分の一番の味方になってあげることです。

例えどんな汚れていて醜い自分でも、そこにいていいのだと、その存在を許してあげることです。

どんな自分でも、そこでありのままの姿で包み込まれて安心してぐっすり眠れるような、そんな居場所を自分が提供することです。

そして、それがきっと、他者を自分の安全基地にしていたあなたがずっと、相手にしてほしかったことなのではないでしょうか。

 

 

そんな「安全基地」を自分の中に確立するお話も、ほんの少しですが、しようと思います。

 

 

これはまた別の記事で書く予定のものなのですが、

自分を裁くのは、いつだって「自分」なのです。

 

わたしたちは他者に評価され、他者に裁かれているように感じるかもしれませんが、

実は、自分を裁き続けているのは、いつだって、自分の頭(心)の中にいる「裁判官」なのです。

 

その裁判官が、

 

なにか役に立つこと(生産性のあること)をしていないと、お前には存在価値がない。

みんなが働いている中、自分だけ休むなんてなんてずるい人間なんだ。

相手のことを疑うなんて、なんてひねくれた性格なのだろう。

パートナーのことを100%信じきれていないなんて、あなたの愛は偽物なんじゃないか。

他人に嫉妬するなんて、大人として恥ずかしいことだ。

素直に相手の成功を喜べないなんて、なんて性格が悪いのだろう。

嘘つきで卑怯な自分を隠して生きているのに、人から愛されようなんておこがましい。

 

そんなようなことを、24時間365日あなたを監視しながら、ささやき続けるのです。

 

そしてそれが「投影」として周りから言われた時に、自分の心が傷つけられたように感じるのです。

もしくは、本当は言われていないのに、いかにも周りの人がそうささやいているかのように感じてしまったり、まるでそれが世間の声であるかのように感じてしまうのです。

 

 

そしてその裁判官とは、

かつての自分が深く傷ついた経験を元に、

「もうあんな思いはしたくない」という強い願いから生まれたものなのです。

 

リスクを先回りして、自分が再び転んで同じような思いをしないために、

自分があの過酷で残忍な環境を生き延びるために、

自分を守り続けてきた存在なのです。

 

でも、そんな裁判官の言葉が今の自分に合わなくなってきたのなら、その裁判官の言葉で自分自身が傷つき相手を傷つけることが増えてきたのなら、

もう今はあのころとは違う環境になり、自分も大きく成長し、成熟した一人の大人になった、ということなのだと思います。

 

もう一度、自由に「転ぶ」権利を、自分自身に与えても良いと、

その上で自分の人生を再び生きていきたいと、感じられるようになったのだと思います。

 

それまではその裁判官と一心同体だった自分を、

 

その裁判官が自分の中にいること、

そのおかげで自分が今まで生き延びてこられたこと、

その裁判官がいる自分もまた、「自分」であること、

そんなことを、客観的に認めていきましょう。

 

そして、新しく自分の中に「最強に過保護な弁護人」を登場させてあげるのです。

 

その弁護人は、裁判官を黙らせるために存在するのではありません。

 

頭(心)の中で裁判官が何を話していてもいいのです。

それも含めて、自分の全てを擁護してくれる存在なのです。

 

例えば、

「役に立たない(生産性のない)自分なんて、存在価値がない」

そんなふうに、頭の中の裁判官が申し立て、自分を責めているとしましょう。

 

そうしたら、自分専用の「最強に過保護な弁護人」は、どんな自分であれ、擁護してくれるのです。

「最強に過保護」なのですから、そこに世の中の常識や世間のルール、理想論などは関係ありません。

 

「そう思ってしまうのは仕方のないことだね。それだけ、過酷な時代を生き延びてきたんだね。」

 

そう言って、裁判官が何かいうことを止めません。ただ、言わせてあげるのです。

 

そうやって、全ての感情に、居場所を与えてあげるのです。

 

そして、その弁護人は「もう大丈夫だよ」そう言って優しく包み込んでくれて、前に立って、最強に過保護に自分のことを弁護してくれるのです。

「彼女・彼はずっと、逃げ出したくなるような過酷な環境下で、歯を食いしばって何年も耐えてきたんです。やる気がでず、泥のように眠り、休みたくなるのは生き物として当然の権利です。文句があるなら、わたしが相手になります。」

 

どんな言葉でも良いので、こんなふうに、自分がほっとできるような言葉を並べてみてください。

 

そうやって、自分の中に自分が安心できる場を、自分で作っていくのです。

 

そして、安全基地を作り、自分軸を築いていくもう一つの方法としては、

ありきたりな言葉にはなってしまうのですが、

何かを選択する基準を、「不安や恐怖」や「他人」ではなく、「自分が本当にしたいこと」に切り替えていくことです。

 

「主語」を「相手」ではなく、「自分」に切り替えていくのです。

 

「自分が」どうしたいか。

「自分が」どう感じるか。

 

これは、今までやってきたことのない方にとっては初めは難しく感じますし、すぐにできるようになることではありません。

日々小さな選択の積み重ねで、見えて来るものなのです。

 

最初は自分がなにをしたいかわからなくても大丈夫です。

わからなかったら、五感に意識を向けて、その中でひとつ、自分が少し「心地いいな」と思うモノを選びましょう。

 

今の自分が良い香りだと思う香りをかいでみる。

心地いいと思う毛布にくるまってみる。

美味しいと思えるものを口にしてみる。

耳馴染みの良い音楽をかけてみる。

 

そんなふうに、頭を介するのではなく、自分の感覚で感じてみるのです。

 

遠回りにみえる日々の積み重ねが一番の近道であったりもするので、

是非、トライしてみてください。

 

今日は色々な話をしましたが、

こんなことを日々考えながら、自分の中で理解が進んだ出来事がありました。

 

それは、自分の大切なパートナーに言われた一言です。

 

「自分のことをもっと信じてよ」

 

最初の話に戻りますが、わたしは、

一つは相手を想うからこそ。相手に「転んでほしくない」という思いから、先回りしてリスクを潰すように行動したり、求められてもいないのに相手にアドバイスしたりしていました。

 

そんな中で相手にこの言葉を言われた時に、ハッとしたんですね。

わたしが親に言った言葉と、同じじゃないかと。

 

わたしも相手から、自由に「転ぶ」権利を奪ってしまっていたんですね。

そして、それと同時に、「相手なら、たとえ転んでしまったとしても大丈夫だ」と、相手を信じてあげることができていなかったんです。

 

そして、わたしがリスクを先回りして行動したり相手にアドバイスをしていたもう一つの理由は、相手を通して「過去の自分の傷」を見ていたからなんですね。

もしかしたら、こっちの理由の方が大きかったのかもしれません。

 

「あの時の自分と同じような思いをして欲しくない」という思いと、その思いに伴うあの時の生々しい傷の痛みが、相手から「転ぶ」自由を奪うという行動につながってしまっていました。

 

自分の過去の経験は自分だけのもので、

同じ経験を相手がするのかさえもわかりませんし、同じ経験をしたとしても感じ方は違うかもしれないし、それがきっかけとなって大切なことに気付いていくのかもしれません。

 

自分の問題を、相手の問題に重ね合わせて見てしまっていたのです。

あらためて、「相手は相手、自分は自分」と、境界線をしっかり引かないといけないなと感じました。

 

自分の古傷が疼くのを、相手に擦り付けてはいけません。

相手はそれを完全に治すことはできないからです。

だからこそ、ここで浮彫になってきた過去の自分の傷は、自分でちゃんとケアして、癒していく必要があるなと感じました。

そして、自分も相手も、自由に「転ぶ」権利を持ちながら、これからも「自分としての人生」を進めていけたらなと感じています。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

「愛」という名のコントロールをやめ、パートナーを完全に放し飼いにした時。~精神をすり減らす、「一番楽な生き方」の終わらせ方~

こんばんは。

心理カウンセラーのみらいです。

 

今日は、「依存」について、お話していきたいと思います。

 

相手へのコントロールを手放して、自分の人生の運転席に座るまで。

 

「依存」という一見「楽」な生き方を手放した先に見えるものをお話します。

 

今日はパートナーシップを軸にお話していきますが、親子、友人、職場関係といったあらゆる関係性に当てはまることだと思いますので、ぜひ置き換えて読んでいただければと思います。

 

■ 「尽くす」ことの、傲慢な正体

私たちはよく、「相手のために」という言葉を隠れ蓑にします。

相手の機嫌を取り、先回りして世話をし、自分の時間を削って相手を待つ。

それを「愛」や「献身」だと美しく名付けてきてきました。

 

もしそれが本当に愛であるなら問題はないのですが、もしそこでうまれてくる感情に苦しさや怒りがあるなら、

その行動の裏にあるのは、もしかしたらきわめて自己中心的で傲慢な「相手への支配・コントロール」なのかもしれません。

 

「私がこれだけ配慮している(コストを支払っている)のだから、私を安心させてよ。」

「私がこれだけ献身的に支えているのだから、わたしの存在価値を保証してほしい。」

そんな、無言の恐喝が、そこにはあったのかもしれません。

 

相手の顔色に従って動くことで「居場所」がもらえる。

そこにあるのは、もしかしたらそんな楽で「依存的」な生存戦略だったのかもしれません。

 

■ 24時間無休の「パトロール隊員」

相手に「依存」して生きるということは、他人の車の「助手席」に座り続けるということです。

 

目的地まで運んでもらえるから物理的には楽ですが、命綱(自分の幸せの決定権)はすべて運転手に握られています。

相手が荒い運転をしても、急ブレーキを踏んでも、耐えるしかありません。

途中で降ろされないように、必死で機嫌を取り、監視し続けなければなりません。

 

もしその運転手の人間性に少しでも不信感を感じているのならば、相手が事故らないように一生「見守り役」として相手を監視し続けなければなりません。

 

「目を離したら裏切るのではないか」

「このまま任せて大丈夫か」

そんなふうに、助手席から常に相手のことを監視し、パトロールし続けなければならない。そんな、疲弊するような地獄のような時間がずっと続くのです。

 

もし今あなたが恋愛で疲れ果てているなら、

それはもしかしたら「相手を愛しすぎているから」ではなく、

「心の底からは尊敬しきれない相手を”自分の理想の人間”に仕立て上げようと、見張り続けていること」に疲れきっているのかもしれません。

 

 

■ 「受け身の女」への強烈な嫌悪感

もし、あなたが「受け身」であることに疲れているなら。

 

例えば、

「家で待っているだけのポジションなんて絶対に嫌」

「相手の顔色を気にして生きるだけの人生なんて嫌」

「どうして相手都合に合わせて気を遣い続けなければいけないの」

など、受け身でいることに強烈な拒絶反応が起きているなら、

 

そこにあるのはきっと、

「相手への不満」なのではなく、

「自分自身の今までの生き方への不満」がでてきた証拠なんだと思います。

 

「自分の足で立ち、傷を負いながらでも社会で戦える人間が、なぜ”誰かの人生の都合のいい背景”なんかに成り下がらなければならないのか」

「他人の都合で自分の価値が左右される”待つ側”の席になんて、絶対に座りたくない」

 

本当に自立できる人だからこそ、きっとそんな思いがふつふつと湧き上がってきたのだと思います。

 

そしてそんな「受け身」の生き方を終わらせていくには、「依存」しいては相手への「コントロール」を手放していかなければなりません。

 

■ コントロールを手放す、ということ

「依存」という生き方は、自分で自分の人生や幸せを決めなくていい分「楽」に見えます。

ですが、その責任を預けている他人に自分の全てが委ねられるため、相手の行動や感情によって自分の人生や基盤が大きく揺さぶられてしまうという、最大の「弱点」があります。

そして、それを壊されないために、相手を「コントロール」しようとする、絶対に叶うことのない「支配」を試みようとします。

そして、それがうまくいっているうちはいいのですが、うまくいかなくなった途端に「虚しさ」や「自分の存在意義、自分の人生がわからなくなる」そんな気持ちに一気に陥ってしまうのです。

そして、それをどうにかしようと、また相手を「コントロール」しようとする。

でも、それはうまくいくことなく敗北していく。

そんな、脆い土台の上に築いた自分の王国は、一度揺らぎが入ることで、「負の連鎖」のように雪崩のごとく崩れ去っていってしまうのだと思います。

 

そもそも、自分の存在価値や自分の幸せが「相手基準にある」ということ自体が、息が詰まるような、苦しさを生むこともあります。

 

そんな、しんどい「依存」の生き方を変えていくために。

まず、「コントロール」していることを認め、それを一つずつ手放していく意思をもつことが大切なのではないかと感じています。

 

相手を変えようとすること。

相手の行動を見張ること。

相手の人生の責任を背負うこと。

そのすべてを、今日から少しずつ、手放していきましょう。

 

怖いですよね。わたしも、怖いです。

怖いからこそ、手放してきたくなかったものなんだと思います。

 

完璧でなくても大丈夫です。

出来ない日があっても大丈夫です。

ただ、「相手へのコントロールを手放そう」

そのマインドを持ち続け、選択し続けることが、とても大切なのだと思います。

 

 

 このプロセスは、

「相手の問題と自分の問題を切り分ける」

という言い方をされることもあると思います。

 

相手の問題は相手のもの。自分は背負わない。

自分の問題は自分のもの。相手をコントロールして背負わせようとしない。

 

自分の幸せのために、相手をコントロールしないこと。

自分の幸せのために、相手の自由を奪わないこと。

とても難しいですが、そういったマインドをもつことで、少しずつ、見え方や考え方が変わってくるのだと思います。

 

その先に、きっと見えて来るものがあると思います。

最初は、自分が意外と相手をコントロールしようとしてきたことが見えてくると思います。

自分が献身的にやってきたことが、実は相手を支配するためにやってきたことだったのかもしれないと、気付くかもしれません。

それらに気付いていくことが、最初の大きな一歩なんだと思います。

 

行きつく先には、

「私がいなくても、この人はこの人の人生を勝手に生きていくし、私も私の人生を勝手に最高に楽しむ」

そんな思いが芽生えるのかもしれません。

 

そして、そうやって、自分も相手も完全に放し飼いにした時、自分が本当にしたいことや自分が本当に一緒にいたい人が見えてくるのかもしれません。

 

放し飼いにした先に、本当の意味で、

「相手のことを一人の人間として尊敬できるかどうか」

「この人と一緒にいたいと思えるかどうか」

がわかってくるのかもしれませんし、

お互いに自立した一人の人間としてのパートナーシップが築けるのかもしれません。

 

今、恋愛に疲弊している人の中には、もしかしたらそんな対等な関係を本当は望んでいる人がいるのかもしれません。 

 

■ 助手席を降りて、自分のハンドルを握る

「依存」という、温かいぬるま湯から這い上がって自分の足で立つことは、冷たくて孤独なプロセスのように感じると思います。

 

相手とのつながりが切れてしまったようにも感じるし、

自分が冷たい人間のように感じてしまうかもしれません。

また、「自分自身の人生をどう楽しむか」という、自分の人生の最も重い責任を自分で引き受けなければならない重圧や責任感を感じるようになるかもしれません。

 

でも、それを乗り越えることができたら、

きっと、その先にある自由と心地よさを感じて、

もう二度と、自分の人生のハンドルを他人に握らせることはないのだと思います。

 

「依存」を乗り越えた先には、きっと、そんな、軽やかで心地よい風が吹いているのだと思います。 

 

誰の機嫌にも左右されず、誰の顔色もうかがわない。

依存を乗り越えた先にある、そんな「冷たい自由」こそが、

あなたが本当に欲しかったものなのかもしれません。

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

「分かってほしい」という呪い。~母への期待を手放した先に見えたもの~

こんばんは。

心理カウンセラーのみらいです。

 

今日は最近の気付きについて、書いていこうと思います。

 

【終わらない不安と退屈の正体】

わたしは長年、人生に対する慢性的な退屈さや、ふとした瞬間に襲ってくる「私なんてどうせ誰にも理解されない」という強烈な孤独感。

そして、パートナーに対してもどうしても拭いきれなかった「また裏切られるのではないか」という不信感と恐怖心を抱いて生きてきました。

 

わたしは長年、これらの感情に振り回されてきました。

自分の性格が歪んでいるからなのか、それとも相手が悪いからなのか。

その答えをずっと探し求めてきましたが、最近になってようやくその「根源」に辿り着いたような気がしています。

 

それは、パートナーの問題でも、性格の問題でもありませんでした。

その根源にあったのは、わたしの中にずっと居座り続けていた、

「母親なんだから、わたしのことを完全に理解してよ。」

「母親なんだから、わたしのことを無条件に愛して、受け入れてくれるはずだ。」

という、母に対する残酷なほどの大きすぎる「期待」でした。

 

【ツバメに白鳥の泳ぎを求めていた】

私たちは無意識のうちに、母親を「神様」のような完璧な存在として仕立て上げてしまいます。

言葉にしなくても私の複雑な感情を察し、どんな私でも丸ごと受け止めてくれる「絶対的な安全基地」であってほしいと願ってしまう。

でも、現実の母は、神様なんかではありませんでした。

わたしたちと同じように悩み、間違え、キャパシティに限界がある、ただの「不完全な一人の人間」だったのです。

 

母に愛情がなかったわけではありません。

ただ、心の複雑さや孤独の深さを理解するための「器の種類」が違っただけだったのだと思います。

 

わたしが今までやってきたことは、例えるなら、

ツバメに向かって「鳥なんだから、白鳥のように優雅に泳いでよ!」と泣き叫んで怒っているようなものだったのだと思います。

ツバメはツバメなりに空を飛んで餌を運んできてくれていたのに、私は「なんで白鳥じゃないの!」と、無い物ねだりの期待を握りしめ、勝手に絶望していたのです。

 

【母への期待が、パートナーへの恐怖にすり替わっていた】

もちろん、因果関係はこれが全てではないと思っています。

ただ、この、母への「期待」が満たされなかったことで空いてしまった心の穴を、パートナーに代わりに満たしてもらおうとしてきたのかもしれないなと思いました。

 

「一番身近な親ですら、私のことを分かってくれなかった」という悲しみと絶望。

そこで満たされなかった巨大な期待の矢印を、私はそのままパートナーへと向けていたのです。

 

「親が分かってくれなかったんだから、あなただけは私の全てを理解し、絶対に裏切らず、私を安心させるべきだ」

 

この重すぎる期待を背負わせていたからこそ、相手が少しでも不誠実な態度をとったり期待外れの行動をしたりすると、今までのわたしは単なる「悲しみ」を超えた「不安」や「恐怖心」を感じていたのかもしれません。

それは、相手への怒りであると同時に、ずっと昔から泣き叫んでいた「また私を分かってくれないの?」という、幼いわたしの声だったのだと思います。

 

【神様を「ただの人間」へ降格させる】

この連鎖を断ち切る方法はただ一つ。

母はわたしの理想通りの母ではないことを、「徹底的に絶望すること」だと思いました。

 

「いつか分かってくれるはず」という、ずっと抱き続けてきた淡い執着を捨てること。

「母はわたしのすべてを理解できるわけじゃない。」と、淡々とその事実を認めること。

母を「神様」の座から引きずり下ろし、わたしと同じ「ただの不完全な人間」へと降格させること。

 

それはとても痛みを伴うものでした。

理解されなかった、過去の小さな自分を久しぶりに感じました。

「理解されたい」と、理解されるまで頑張り続けようとした、過去の自分が出てきました。

「悲しかったね」と一緒に泣いてあげる時間が必要でした。

 

でも、「母が完璧でないこと」を理解し、その事実を咀嚼し続け、その悲しみを今の自分が労り味わった時、不思議と心は以前よりも落ち着いて、静かになりました。

 

【手放すことは「受動的な諦め」ではなく「能動的な意志」】

「期待を手放す」ということは、

「どうせ誰も分かってくれない」といじけること(被害者になること=受動的)ではありません。

それは、「自らの強い意志の力」をもって能動的に行うものです。

 

「相手を自分の理想通りに作り変えようとする無駄な期待を、私の意志で今日終わりにします」という、能動的な決断なのです。

 

期待を手放したとき、きっと、世界は驚くほどシンプルに見えるのだと思います。

相手の不完全さを「そういうものだ」と俯瞰できるようになり、見返りを求めずに「私がしたいからする」「わたしが愛したいから愛する」という、自由で身軽な境地に立てるような気がしています。

 

もう、誰かに完璧な理解を求めて怯える必要はありません。

もう、誰かに振り回される必要はありません。

 

ツバメにはツバメの、白鳥には白鳥の、不完全な彼には彼の愛し方があるのです。

それをどう楽しむかは、わたしが自分の意志で決めてはじめて、主体的に見ていけるのだと思います。

 

自分の中に無意識にあった「母への期待」。

これを大切に握りしめ続けることで、お互いにとってとても窮屈で、お互いにとって苦しい関係性があったのかもしれません。

 

自分の意思をもってその強く握りしめていた手を開くことで(手放し)、今よりももっと素敵な世界が見えるのであれば、もうそろそろ、わたしはそれを選んでいきたいなあと、感じています。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

人間の成長意欲

大変長らく、ご無沙汰しておりました。

お久しぶりです。

 

心理カウンセラーのみらいです。

 

前回の更新から、自分でも驚くほど多くの変化や影響があって、

その中で感じたことについて、久しぶりにブログに書いてみたいなと思ったので更新してみました。

 

わたし自身の考えについて書いていますので、気楽に読んでいただければと思います。

 

ブログタイトルに書いたように、今日は「人間の成長意欲」について、お話していこうと思います。

 

わたしは物心ついた時から、自分のことを、

「絶えず成長していかなければならない、変わっていかなければならない存在」

として認識していました。

 

人として生まれたからには、現状に満足せずに、成長しつづけなければならない。

 

もし現状に満足してしまったら、自分の成長をそれ以上期待することはできず、

今の不足の状況をずっと甘んじて享受し続けなければならない、

満たされない状況の中で、苦しみ続けなければならない、

そこから抜け出すことは、もう二度と出来なくなるように感じていましたし、

それが「人としての敗北」のようにも感じていました。

 

だからこそ、自分自身には絶えず、

「今よりも変わっていくこと」

を求め続けてきたように思います。

 

今の自分の中で、

満たされていない部分、悩んでいる部分、生き辛いと感じている部分、人よりも劣って見える部分、今後劣り得る部分、

そんな部分を見つけては、「どうしたらいいんだろう、どうしたら変えられるのだろう」と考え、悩み、試行錯誤しながら過ごすということが、クセになっていました。

 

今となっては、呼吸をするのと同じくらい、自然にその考えが見についてしまっていますし、半ば強迫観念に近いような感じで、「変えていかなければならない」とまで感じていたように思います。

 

「自分は、常に高みを目指して更新していかなければならない。

もし、今の自分に満足したり、今の自分でいること、あるがままでいることを許してしまったら、成長意欲がなくなって、今の状況に甘えてしまって、今の状況から抜け出すこともできなくなる。そしてわたしはいつまでも、同じ問題の中で、指をくわえながらその状況を享受するだけのつまらない存在になってしまう。」

 

自分の頭の中を言語化するなら、これが一番適切な表現かはわかりませんが、このニュアンスが近いように感じています。

 

自分にとって「成長」とは、

していかなければならないものであり、

そうでなければ堕落したダメな人間になってしまったり、

そうでなければ自分の苦しみから免れることもできないものであり、

常に自分に変化していくことを求めるもの、でした。

 

そんな考えのまま大人になってきて、途中までは良かったんだと思います。

それが自分を鼓舞して、自分の成長にも本当につながった部分もあって、

だからこそ今の自分にもなれて、見える世界も広がったように思います。

 

でも、ある時から、この生き方がしんどくなってきたんですよね。

この考えで生きていると、

いつまでたっても、今の自分を許すことも、認めることもできませんでした。

常に「じゃあどうしたらいいんだろう」「今の自分から変わりたい」という考えにに支配されて、今の自分を見ることもできなければ、

「あの人はいいな」「この人が羨ましい」「この人みたいになりたい」と、

他人に自分のないものを投影しては、常にないものねだりをするようになりました。

そうすると、今の自分には満たされない感覚がつくようになり、

また、いつまでたっても、今の自分を「信じる」ということが出来ませんでした。

 

自分にとって、「今の自分」とは、いつまでたっても「変わるべき対象」であって、

その自分で在り続けることは許せない存在でした。

 

だから、そんな自分を信じるなんて、できるわけがないですよね。

「今の自分」は、自分にとっては常に否定の対象だったんですから。

 

だから、公の場で発言するのも怖くなりました。

自分を守れるプライベートスペースならまだ大丈夫なのですが、

今の自分には足りない部分、欠けている部分があって、

それは常に「変えていかなければならない対象」だからこそ、

公の場で発する自分の考えや発言にも自信が持てなくなってしまい、

萎縮するようになっていきました。

 

「そんなに素敵なもの沢山持っているはずなのに、どうして他人のことを羨ましがるのか」

 

わたしの考えを共有している知人に、先日もそんなことを言われました。

わたしは、「今の自分」を否定し続けた、「変わらなければならない」という思いに支配された結果、自分自身の持っているものにすら目をくれることも、価値をちゃんと見出すことも、できなくなっていたのだと思います。

 

先々を常に見続けたことで、「今・ここに居る自分」を見失ってしまった。

きっと、今までの自分は、そんな状況だったのでしょう。

 

そしてこれはおそらくですが、

今の自分自身を受け入れられない、信じられないからこそ、

それの投影なのか、相手を信じることも、信じるとはどういうことなのかも、理解出来てはいなかったのだと思います。

 

でも、そんな生き方が、そろそろしんどくなってきたんでしょうね。

 

この、「変わっていかなければならない」という強迫観念から、早く誰か助けてほしい。

自分では固執してしまって抜け出せなくなっていたその世界から、早く誰か手を引っ張って連れ出して欲しい。

もう、こんな生き方は、うんざり。

 

そんな思いが、自分の中で芽生えていたんでしょう。

 

自分のメンターとの会話の中で、

「正しいことかもしれないけどさ、そんな生き方、しんどくないか」

と言われたのをきっかけに、

「あ、もう、やめていこう」

そう、思えるようになりした。

 

ずっと、誰かが止めてくれることを、歩みを止めるきっかけをくれることを、心のどこかでずっと待ち望んでいたのかも知れませんね。

 

でも、それと同時にでてきたのは、やっぱり、

「でも、もし今の自分に満足してしまって、今の自分でいいんだと許してしまったら、ずっと今の生き辛い世界に居続けることになるのではないか。現状に満足してしまった人は、どうやって成長していくのか。」

そこに対する不安でした。

 

わたしの中では、

「今の自分を許す、今のままでいいと思える」=「生き辛い今の世界に居続けることになる、成長意欲がなくなる」

だったのです。だからこそ、ずっと今の自分を認め続けることができていなかったのだと思います。

 

それに対するメンターの答えは、わたしの中ではすごくしっくりくる言葉でした。

 

「欲求が、その人の成長意欲につながる」

 

もっとおいしいものを食べたい、もっと良い服を着たい、もっと良い関係を築いていきたい、など、

そういった、こうしたい、ああしたい、という欲こそが、自分自身を成長させてくれるのだと。

 

「成長していかなければならない」という、強制的なものなのか

「成長していきたい」という、自発的なものなのかの違いなのだそうです。

 

たしかに、そう言われてみれば、

こうなりたい、ああなりたい、という欲から生まれる行動原理は、

自分をより自分が望む方向に、前向きに後押ししてくれるような気がしました。

 

そして、そうしていくためには、

「今の自分を認めていくこと」が必要なのだそうです。

 

今の自分はこう思うんだから、それはしゃーないやん。

 

といったような、そんな一種の開き直りが、大切なんだそうです。

 

そしてそれに対して周りが何かを思ったとしても、それもそれで、

今の自分はこうなのだから、しゃーない。

という気持ちと、

まあ、”相手が”そう思うなら、それはそれでしゃーない。

という気持ちを持つことだそうで。

 

そうやって、今の自分を「どうして出来ないんだ」と責めるのではなく、

自分が一番の味方になって、今の自分を認めていくことが重要だそうです。

 

もう今までの生き方に辟易としていたわたしは、

そんな、今までにも何度も耳にしてきたはずの、

「今の自分を許し、認める」

ということを、あらためてやってみることにしました。

 

今の自分に対して相手がなにかを思ったとしても、それは相手の捉え方(の問題)であって、

自分はとりあえず、今の自分を知って、認めて、今の自分がそうであること許していく。

 

まだ考えるようになって日も浅いですが、

なんとなく、感覚でわかることが増えてきました。

 

 

ひとつは、自分に軸・土台ができたように思います。

開き直りとは、一見悪くみられることもある言葉ではありますが、

 

今の自分は何が出来て、何が出来なくて、ということを知ることで、

今までは、そんな自分をを変えなければならないと思っていたからこそ、

今の自分の話をしているはずなのに、「変わった後の自分」について話してしまったり、「変わっていくための努力義務」について話してしまうことで、その目標が達成されなかった時に、いつまでたっても変われない自分に腹が立ったり、変わらない状況に辟易してしまうことがあったのですが、

今は、今の自分のことを分かっているからこそ、今の自分にはこれはできるけど、これはできない。という、より地に足をつけた話をすることができるようになってきましたし、そんな自分に対して、相手が無理だと思うのであれば、悲しいけれどそれはもう仕方のないことだと、割り切れるようになったというのか、相手の意見も、今の相手の意見として、以前よりも受け入れられるようになったように、思います。

 

また、今の自分を等身大で認めることができるようになってきたからこそ、

公で今の自分の考えについて発言することについても、気にならないようになってきました。

今の自分が言えることはここまで、今の自分で出せる知識や考えはここまでだ、ということを分かっているからこそ、完璧ではないかもしれないけれど、今の自分にとってのベストをだすことに、意識を向けることができるように、少しずつなってきているように思います。

 

そして、これは副産物なのかもしれませんが、

はじめて、自分がどうしたいのかが、少しずつわかってきたように思います。

そして、「今の自分」を以って、何かを選択をしたときに、その選択をすることへの覚悟もできるようになってきたように思います。

 

あとは、まだソワソワはしますが、とても楽です。

もう、幻想の自分にしばられなくていい、

今の自分を否定し続けて、ないものねだりをしなくてもいい、

もう、頑張ることをやめてもいい、

今の自分を受け入れて、今の自分のままでも幸せになれることを認めていいんだと、

そしてそれこそが、自分がずっとできてこなかった「自分を信じる」につながることなのかもしれないなと、今だからこそ感じています。

 

今の自分を認め、受け入れ、そのままの自分で幸せになることができる。

 

以前のわたしなら、ただの「綺麗事」でしかなくて、

到底受け入れることのできない考えであったように思います。

でも、そこまでに至るプロセスに、自分に対する覚悟、自分と向き合う覚悟がうまれるのだと思うと、それはただの綺麗事ではなくて、自分の「決意」の先に在るものなのだなと思います。

 

少なくとも、この人生を歩んできたわたしにとってはそう感じていますが、

きっと、別の人生を歩んでこられていた方にとっては、また違った見方になるのかと思いますが、それも、捉え方はひとそれぞれでいいような気もしています。

 

最後までお読みくださり、ありがとうございました。

激動の日々の中で

こんにちは。

心理カウンセラーのみらいです。

 

ここ1ヵ月は、めまぐるしい変化の中にいるような気がしています。

つい数日前、つい1日前の自分とは全く違う自分になっているくらい、

大きくて速い変化になんとか飲み込まれないように必死になっていて、

自分ではゆっくり振り返る余裕もないほど、激動の日々です。

 

自分の身辺整理をするようになってから、

大きな変化、大きな心の痛みを感じました。

 

安易なものに飛びついて、都合の良いもので慰めを得て、

本当に欲しいものには向き合いきれず、

それを欲しいとも思わなくなるくらい、

どこかやさぐれて、麻痺していた自分にとって、

本気で自分と向き合って変えていこうとする力は、

とても大きなものでした。

 

その時に見えた傷は、本当に苦痛を伴うくらいのものでした。

その時の感情は、不快、この一言に尽きたような気がします。

その感情自体もしんどいものだったのですが、

自分をさらに苦しめたのは、

その感情が「懐かしい」ものだったからです。

 

「ああ、知ってる、この感情。」

「まだ自分は、この感情の中から逃れられずにいたのだなあ。」

 

何年も、もっと前から感じていたその感情を感じてしまうと、

急に自分がちっとも成長できていないような感覚に陥ってしまって、

いつまでたっても、どれだけ頑張っても自分はもうこの感情から

逃れられることはできないのかもしれないと、

そんな気持ちにまでなって、自分自身に対して絶望感を感じてしまいます。

 

そして、その「自分に対する絶望感」が、自分自身をもう消し去ってしまいたいと思わせる要因の1つになっていたのでした。

 

でも、わたしは、もう1人ではありませんでした。

今までと違うのは、わたしの側には、助けてくれる人達がいました。

 

それも、じわじわとそういった環境がととのっていったのだと思いますが、

自分が本気で自分と向き合うと腹を括ってから、

正確にいえば、腹を括ろうと意識を向けるようになってから、

自分を本気でサポートしてくれる、

その覚悟をもって自分の側にいてくれる人達の存在を強く感じるようになりました。

 

自分が腹を括り、自分の周りにいる人も腹を括り、

自分が倒れてしまわないように、逃げ去ってしまわないように、

自分の側にいて喜んで支え続けてくれて、

わたし自身もその応援や温かい声援を基に

何度くじけても、どれだけ涙を流そうと、もうやめてしまいたいと諦めかけても、

その度に支えられながらも立ち上がって、前を向いて、また一歩踏み出しています。

 

ここ何年も、わたしは人生に後ろ向きでした。

なんの希望も、夢も、望みも、願いも、ありませんでした。

みようと思ってもみえない、どうすればいいのかもわからない、前を向いて進んでいく元気もない。やる気もない。つまらない。めんどくさい。

そんな、やさぐれた精神で何年も生き続けてきたのだと思います。

みんな、すごいな。みんな、うらやましい。

現状に不満はあるのに、一歩踏み出す勇気も元気も気力もわかず、ずっとそんな感じで過ごしていました。

以前、自分がひたむきに、なにか信念をもって生きていた時って、どんな風に考え、過ごしてしていたのだろう。

そんなことさえも全く思い出せないくらい、以前の自分の信念とは真逆の、刹那的に生きていたのだと思います。

 

そんなわたしが、いろんな経験を経ていく中で、

本当の意味で自分自身を大切にしようと感じるようになりました。

そこから、自分の意識が日毎に大きく変わっていったように思います。

 

そこから、自分を支えてくれる環境も、そこに自分も自分自身を託そうとするコミットも、加速するようにととのっていったように感じています。

 

この1-2週間で、自分の人生に関わる大きな決断をいくつしてきたのでしょう。

 

これ、よく鬱にならないな、よく燃え尽きて倒れないな、と自分自身でも思えるくらいには、相当な激動の日々を過ごしました。

アップもあれば、ダウンもあって。

今までにないものを感じられるようになったかと思えば、今までと変わらない自分に絶望感を抱き、泣き明かす日もありました。

 

でも、どれだけ自分が落ち込んで、ふさぎ込んで、もう諦めたくなって自暴自棄になろうとしても、そんな自分を見ていて、受け入れてくれて、手を差し伸べてくれて、労わって抱きしめてくれる、自分の中が空っぽになるまで自分の思いを聞き続けてくれる、そんな存在が自分の周りには確かに在るから、

わたしはすぐにまた立ち上がって、歩みを止めることなく今も一歩ずつでも前を向いて、もう自分の心から逃げないという強い信念を持って、歩み続けることができているのだと思います。

 

自分が腹を括り、そんな自分を支えてくれる人たちも腹を括る。

そんな中で、自分が着ていた鎧の数々が、心の痛みや大粒の涙を伴いながら、ひとつずつ剥がれ落ちていくのを感じたとき、

そこに今残ったのは、紛れもなく、「素のじぶん」であることを感じました。

 

「素の自分」とは。

 

嘘偽りのない、本心のままで生きている、誰かを陥れたり、誰かを蹴落としたり、誰かと比較競争することはない、純朴な、そんな存在でした。

それと同時に、とても脆くて、とても傷つきやすくて、誰かに攻撃されたら、それをガードすることもできず身に受けてしまいそうな、そんな弱い存在であることも、とても強く痛感しました。まるで、生まれたての赤ちゃんのような、自分を守る術もない幼い少女のような、そんな感覚でした。

だからこそ、なにも鎧を身にまとっていない、「素の自分」を感じた時に、自分を傷つける人に触れられてしまったら、脆くてボロボロに崩れ去ってしまうからこそ、もう誰も自分を傷つける人に触れて欲しくない」という思いもでてきました。

自分を傷つける人、利用する人のことを遠ざけ、自分のことを本当に大切にしてくれる人を受け入れる。そんなふうにちゃんと自分のことがわかることで、本当の意味で、自分自身を大切にする準備ができてきたのだと思います。

 

そして、こんなにも脆くて弱い自分だからこそ、そんな自分自身を守るために、何十にも鎧を着て、身に着けられるだけの武器を身に着け、一人で闘い続けてきたのだと思います。

 

そして、鎧が剥がれ落ち、「素の自分」のままになったからこそ、今は、周りにいる人が、自分の鎧となって「自分を守ってくれている」のだということも、少しずつ、実感としてわかるようになってきました。

それは、そういった愛情を受け取れないわたしに、根気強く教え続けてくれた人がいたからこそなのだと思います。

自分は常に守られている、自分はもう、一人で立つ必要も、一人で自分の身を守る必要も、一人で闘う必要もないのだとわかったとき、それまで張っていた肩の力がふっと抜けたような、もう、みんなにもたれかかって生きていたもいいんだと、そんな安心感に包まれたような、ようやく安心して寝られる、といったような安堵感に包まれたような、そんな感情になりました。

 

そして、自分をそんなふうに大切に守り育ててくれるからこそ、自分はその人達にちゃんと愛情をお返ししないといけないなと、そんな気持ちにもなりました。

それは、どれだけ高い物でも、食事でも、匹敵できないような気持ちで。

言葉にしてしまえば、「ありがとう」になってしまうのですが、

筆舌に尽くしがたい、そんな感情を心から感じることができました。

言葉にすることもできない、どう伝えたらいいのかわからない、

でも、なにかお返しをするのではなく、自分自身がそのサポートの上でしっかり輝いて幸せになって華開いていくことが、なによりのお返しになるのかなと、うっすらと心の中では感じています。

 

欲しいものが手に入ったわけでも、何か状況がものすごく好転したわけでもありません。

まだ渦中にいて、日々のアップダウンの中で、休んだ方がいいのではと言われるくらいには疲弊しながらも、心を砕いている日々を送っています。

でも、そんな状況であると同時に、

「こんなに言葉に表せられないくらい幸せなことってあるのだろうか。」

「こんなに”有難い”ことって、こんなに温かいことってあるのだろうか。」

「自分なんかに、どうして。」

と、そんなことを心から感じざるを得ない日々も送っています。

 

他人は全員敵で、倒すべき相手で、誰も自分のことなんて理解してくれなくて、味方なんて一人もいないと思い続けてきたわたしに、

「こんなにも涙がでるほど、温かくて、大きくて、素敵な仲間」

がいたことを痛感できたことは、

自分が自分を諦めずに向き合い続けてきて、

本当によかったなあ・・・。と感じています。

 

いつか、自分のこの経験が、誰かの心の支えに少しでもなれたらな、と感じています。

また、なにかお伝えできることがあれば、文章に残していこうと思います。