こんにちは。
心理カウンセラーのみらいです。
新年度になって、忙しく過ごしておりました。
久しぶりの投稿となりましたが、今日はここ1ヵ月で感じた自分の心理的変化を通して、なにかお伝えできることがあればと思い、ブログを書きました。
今回は ”「自分」というものを表現すること” についてです。
(少し前回のお話と重なる部分があります)
*
前回のブログでも触れましたが、
以前のわたしは「自分の中にある欲求はなくすべき」だと思い、
それを無くすために心理学を勉強し、自分と向き合ってきました。
そんなわたしの中にある強烈な欲求とは、
嫉妬心、独占欲
賞賛欲求、承認欲求
そしてそこから派生する比較競争
というものでした。
相手を自分だけのものにしたくなったり、
自分だけを見て欲しくなったり、
自分の実力を認めて欲しくなったり、
自分を誰よりも褒めて欲しくなったり、
誰よりも秀でていたいという気持ちになったり。
以前のわたしは、こういった欲求をなくすことが「癒し」であり、「手放し」であると思っていました。
だからこそ、どれだけ心理学を通して自分と向き合っていっても一向に消えないこの欲求を感じるたびに
「まだ癒されていない」「まだ手放せていない」と感じ、
「じゃあこれからどうしたらいいのか」と、見えない迷路の中で手探りでさまよっているような気分になっていました。
「まだ残っていたのか」
そう感じるたびに、自分が「不完全」で「不十分」で、ずっと「なにかが足りない」ような気がしていました。
あと、どれくらい向き合えばいいんだろう。
あと、どこに向き合えばいいんだろう。
自分の取り組みの何が足りないんだろう。
ずっとそんなことを感じながら過ごしていたように思います。
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でも、ここ最近になって、
これらは「なくすものではないのかもしれない」と感じるようになりました。
「本当に、悪いものなのか?」
「本当に、存在してはいけないものなのか?」
自分自身の経験を通して、そんな視点の変化がおこるようになりました。
自分が沢山傷つき苦しい思いをしてきたからこそ、欲求とは自分にとって「存在悪」となっていました。
でも、本当はなくすものなんかではなく、こういった欲求が在ることを認めて「共存していく」ものなのではないか。
そして、それらを活かすことで「自分の人生はより自分らしく、よりエネルギッシュで豊かになるのではないか」と感じるようになりました。
この欲求が自分の中に存在する意味とは。
自分がそれらを持って生まれてきた意味とは。
「それらがあるからこそ、自分が望む人生を、自分らしく生きていくことができる」のかもしれません。
そしてもしかしたら、その欲求こそが、自分を望む場所に連れて行ってくれる原動力になるのかもしれません。
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そんなふうに欲求に対しての視点を変えて過ごしていく中で、少しずつではありますが、自分の中での変化をこの1ヵ月で感じるようになりました。
これらの欲求を感じる瞬間は、やっぱり顔をしかめたくもなるし、胸のあたりが苦しくなることもあります。
自分が苦しんだ記憶や、嫌な記憶が蘇ることもあります。
それを感じたくないからこそ、以前はその欲求を必死に抑え、必死に隠し、まるで感じていないかのように自分にも他人に対しても振る舞っていました。
でも、少しずつではありますが、
そんな欲求から目を反らさず、自分の中にはその欲求があることを認め、許し、受け入れるようになっていったとき。
うまく言葉にすることはできないのですが、
「敵」だと思い対峙していたものが、もしかしたら「味方」なのかもしれないという感覚。
それが自分と対峙するものではなく、自分の中に還っていくような感覚がするようになりました。
自分よりもはるかに大きくて、自分を飲み込んでしまいそうなイメージだった「欲求」が、
自分の心の中の一部に存在しているだけのようなイメージになりました。
(それが自分の”全て”でも”自分を飲み込むような存在”でもなく、ただ"自分の要素の一部"だということ)
そんな、視点の変化というのか、欲求と自分との関係の変化というのか、それを感じるようになるにつれて、
少しずつではありますが、「腑に落ちる」という感覚で、自分の気持ちがストンと落ち着いたり、相手への気持ちがスッと落ち着いていくことがありました。
なんとも不思議な感覚で、今までにはなかったような「腑に落ちる」という感覚を、一部ではありますが、経験するようになりました。
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そして、それと関連してなのか、
自分がより素の自分でいる時間が増えたように感じます。
今までの自分は、
相手に良く見られようと自分を偽って良く見せようとしたり、
大人しくておしとやかで優しい女性であろうとしたり、
物分かりのよい、理解ある人でいようとしたりしていました。
(決してわたしがそうでないとは言いませんが・・・👼)
でも、これだけの欲求が自分の中にあるのですから、
本当のわたしはすごく欲深く、人間くさく、負けん気が強い人間です。
また、感情にとても素直で、全方向に全力で感じにいくところがありますし、
自分が純粋に欲しいものは欲しいと表現し、キラキラとそれを見つめて過ごしているような無邪気な子供のようなところもあります。
自分の中にある欲求を認め受け入れていくうちに、前よりも、そんなありのままの「素の自分」を受け入れ、認めることができるようになっていきました。
誰かの目を気にしたり、遠慮したり、他の誰かになろうとせずに、自分の考えや意見をちゃんと自分で伝えられるようになってきました。
自分とはこういう人間で、こんな考えをしていて、こんな部分があるんだということを、ありのままに表現することができるようになってきました。
すると、とても楽で、日々過ごしていく中で楽しいなと感じるようにもなりました。
自分とはこういう人間なんだと、表現できていることが、
「自分を生きている」という感覚に近いものを感じているような気がします。
そしてそれを出すことで、初めて周りからも「自分とはこういう人間なんだ」ということを知ってもらえたような気がしました。
そして、自分がそんな素の自分を受け入れていくことで、周りからもその自分が受け入れられていくような感覚にもなりました。
そして、「それが自分なんだからしゃーない」というような、ある意味開き直りのような、でも自分の中で一本軸が通ったような、そんな感覚にもなりました。
そうすると、相手についても「それが相手なんだからしゃーない」と、認められるようになってきました。
今までは、相手を満たせない自分にも、自分を満たせない相手にも、苦しさを感じることがありました。
「たられば」で語って、「そうであったら良かったのに」と、自分にも相手にも感じることがありました。
でも、素の自分というものを許し、認めて出していくことで、ありのままの相手のこともそのままで認めることができるようになってきた(その片鱗を感じるようになってきた)ように思います。
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自分らしい人生や、より自分が望む人生を生きていくためには、「自分」という存在を知っていくことが一つの大きなカギとなってくるように思います。
一見自分の望みのように感じていたものが、実は他の誰かの望みだったりすることもありますし、
一見自分が望んでいるように見えて、本当に欲しいものは実は別にあることだってあります。
自分とは何なのか。
自分とはどんな人間なのか。
自分は何が好きで、何が嫌いなのか。
自分が本当に欲しているものは、何なのか。
そんなふうに、ひとつひとつ丁寧に、「自分」というもの(これをわたしはその人の「本質」と表現しているのかもしれません)を知っていくことで、
その先に自分が望む生き方を見つけ、そこに向かって歩いていくことができるのかもしれません。
そして、心理学とは、
自分の中にある要素をなくすために存在するのではなく、「自分」とは本当はどんな人間であるのかを知っていくためにあるのかもしれません。
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そして、最後に。
自分とはどんな人間なのかを知っていくためには、他者との関わりが大きな役割を担っているように感じます。
自分を本来の自分から目を反らさせるのも他者との関わりだったりするのですが、
自分を本来の自分に目を向けさせてくれるのも、他者との関わりであるように思います。
そして、他者との関わりの中で自分を見つめて行く時、そこには様々な方法があり、それぞれに適したタイミングがあると感じています。
そしてそれを、わたしの場合は、カウンセリングを通してお手伝い出来たら幸いです。
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