愛に生きる。

【その①】3daysリトリートセミナーの感想 & 隠し続けてきた大嫌いな自分

こんばんは。

心理カウンセラーのみらいです。

 

今回、根本裕幸さんの3daysリトリートセミナーに参加してきました!

1dayは何度か参加したことはありましたが3daysへの参加は初めてでした。

3日間 自分と向き合い続け、身も心もぼんやりしたあとはその余韻に浸りながら今まで過ごしていました。

 

今日は、リトリートセミナーの中で見えてきたこと、そして「ずっと隠し続けてきた大嫌いな自分」について、さらけ出す勇気が持てたので書いていこうと思います。

 

リトリートセミナーでは、フォーカスパーソンを一人決めていきます。

その人の悩みに対するセッションを通して、各々が自分の感情と向き合っていくというプロセスを、何人も何人も繰り返しやっていきます。

 

今回、わたしはフォーカスパーソンの中の一人となりました。

私の悩みは、「大嫌いな上司がいる」ということでした。

 

その上司は、以前の職場にいた方でした。

とても優秀で努力家で何でも出来てしまう一方で、とても厳しく、場の空気を張り詰めさせてしまうような人でした。

 

一緒に働くことになったとき、わたしも仕事に対して強い熱意を持っていたので、必死についていこうと誰よりも努力したり、勉強したりしていました。

できることがあれば全てやり、わからないことがあればどんどん質問していきました。

そんな中で他の方とは打ち解けあい、認められるようになっていきましたが、その上司だけは全くかみ合わないような感じがありました。

むしろ、どれだけ頑張っても歯車がちっともかみ合わず、自分のやることなすこと全てが裏目にでてしまうような感じ。頑張れば頑張るほど空回りしていくような感覚さえありました。

こんなにも真面目に頑張っているのに、何をしてもダメなような感じがする。何をしても相手の癪に触ってしまう。なぜだろうと思う一方で、逆にわたしも、相手の存在に嫌悪感を抱くようになりました。

 

恐怖心や威圧感を利用することで、周りに自分のことを認めさせるのを強要する一方で、

「自分だけが一番で、周りは信用するに値しないほど能力が低い」

「自分の言うことだけが正しくて、周りの意見なんて聞いていない」

そんなふうに周りのことを見下し、わざわざそれを周りに言いふらしてしまうような人でした。

そんな、相手の中にある攻撃的で暴力的で自己中心的な自己顕示欲と承認欲求を目にするたびに、相手への嫌悪感がわたしの心を埋めていくような感じがしました。

 

お互いにお互いが大嫌いだったんだと思います。

次第に、お互いに距離をとるようになっていきました。

距離をとれば解決するかと思っていましたが、でも、その後職場が変わっても、仕事中に何かのきっかけで相手のことを思いだし、常に監視されてダメ出しをされ続けているような感覚になりました。

こんな自分ではだめだと言われ続けているような感覚になり、相手から逃れられないような気分になりました。

 

物理的に離れても、意味がない。

きっと、問題は自分の中にあるのだから、なんとかしなければならない。

きっと、「投影」や「シャドウ」なのだろう。

自分の中に嫌っている要素があって、それを相手に投影しているんだろう。

そう思い、何度も何度も自分と向き合ってきましたが、一向に気持ちは改善されない。

長い時間をかけても解決の糸口を見つけることはできず、次第に諦めるようになっていきました。

そして、物理的に離れていることが救いでもあり、次第に相手のことを意識の奥に沈めていき、あえて思い出さなくもなってきていました。

 

そんな中、今回のリトリートセミナーに参加することを決め、日にちが近づいてくるにつれて、忘れかけていた上司のことをなんとなく思い出すようになっていました。

それだけ強く抱き続けている相手への嫌悪感と執着心について、相談してみようと思いました。

 

「相手のどんなところが特に嫌いなの?」

 

根本さんに聞かれたとき、やはりそこには攻撃的で暴力的で自己中心的な、強烈なほどの自己顕示欲と承認欲求だと感じました。

 

そして、それはやはり、

わたしの中にも同じように攻撃的で暴力的で自己中心的な、強烈なほどの自己顕示欲と承認欲求があり、そこを「大嫌い」だと感じているからこそ、相手に対しても同じくらい嫌悪感を抱くのだということでした。

 

でも、話はそこからもっと深いところへと進んでいきました。

 

詳しくは根本さんのブログに書いてありますが、

nemotohiroyuki.jp

相手の大嫌いな部分は実は自分も持っているもの。

→そこを嫌っているからこそ、それを抑圧して生きるようになるし、それを出す相手に嫌悪感を感じるようになる。

→自分の中にあるその部分に対する嫌悪感が強ければ強いほど、相手に対する嫌悪感も強くなる。

→自分の中にある大嫌いな部分の奥には”こうしてほしかった”という「ニーズ」があり、その奥にはそれだけ強い「痛み」がある。

→そしてさらにその奥には、その人が”talent”としてではなく、”gift”として授かった「才能」がある。と教えていただきました。

 

(「問題(痛み)の裏に才能がある」

たまに目にする言葉ではありますが、まだ自分の中では実感として腑に落ちてはいません。でも、そうなのかもしれないし、それが本当なら自分の中で”問題”の捉え方が変わってくるかもしれないなと感じています。)

 

そして、今回のセッションではそんな「痛み」について、フォーカスしていきました。

 

「なにか心当たりはある?」

 

そこまで強い自己顕示欲と承認欲求を抱くようになった「痛み」のルーツについて聞かれたとき、思わず涙が溢れてしまいました。

わたしの中で、そう聞かれたときに思い出したことがありました。

それは、母と兄の存在が大きく関わっていたように思います。

 

わたしの兄は天才肌で、芸術家タイプでした。

音楽の才能があり、コンクールでは金賞が当たり前、その界隈では一部名が知れ渡るようになっていきました。母親は兄に注力するようになり、兄が母の愛を独り占めしているような感じがしていました。

また、兄は表現力もずば抜けていて、音楽のみならず、授業参観で音読をしたときに他の親御さんが涙を流したり、トーク力も抜群で子供ながらに大人をも楽しませることができるので、親族の集まりでは兄の周りには常に人が集まっていました。

みんな、兄に注目して、関心を寄せている感じでした。

みんな、兄と話したいと、兄の周りに積極的に集まり、兄と話すことですごく楽しそうな表情をしていました。

 

天才で、表現力が豊かで、みんなを惹きつける魅力のある人。

無条件に愛されて、大切にされて、注目される人。

みんながこの人と過ごしたいと思わせるような人でした。

 

その一方で、私は自分のことを真逆のように感じていました。

兄のような才能はないし、能力もないし、芸術肌でもない。

まじめでつまらない人間だから、誰もわたしとの会話を楽しんでくれない。

わたしと一緒にいたいと思って寄ってきてくれる人なんて誰もいない。

わたしには何の魅力も取柄もないから、誰も注目してくれないんだ。

 

幼稚園~小学校低学年あたりから、ずっとそうやって感じていました。

幼稚園の先生からの連絡簿に「切り絵の時間に、お兄さんは自由にいろんな形に折り紙を破ってのびのびと表現していました。逆に、妹さんはひとつひとつ同じ形に切って、端からきちんと整列させて並べていました。」と書いてあるのをたまたま目にしたときに、一人部屋に閉じこもって、ワンワン泣いてしまった記憶があります。

 

「やっぱり、わたしってつまらない人間なんだ」

兄のような才能なんてなくて、面白みのない、つまらない人間なんだと自分の中で感じていたことを、連絡簿を通じて”やっぱりそうなんだ”と実感させられたような気持ちになりました。

幼稚園の先生がそんな意図をもっていないことくらい、わかりました。でも、それを読んでそう感じてしまうくらい、その時の自分は苦しんでいたんだと思います。

 

わたしがもっと兄のように才能や能力があり、皆を引き付ける魅力があれば、わたしはもっとみんなに関心を寄せられて、愛されていたのに。

小さい頃のわたしの親族の中でのイメージは、親族が兄を取り囲んでいて楽しそうに輪になっている外側で、わたしはひとりポツンと、その様子を見ているだけの人でした。

 

”みんなにわたしを見て欲しい。注目してほしい。関心を寄せて欲しい。

愛してほしい。大切にして欲しい。わたしといて、楽しいと思ってほしい。”

小さい頃のわたしはずっと、その思いを抱えながら生きていたように思います。

そして、その対象は親族であり、特に母に強く感じていたように思います。

 

そんな自分がみんなに注目され、愛されるためにはどうしたらいいのか。

みんなの輪の中に入れるためにはどうしたらいいのか。

”兄を超えていくしかない”

わたしの中でずっとなにかを求め頑張ってきたのは、そんな思いから来る補償行為だったんだと思います。

 

兄と同じフィールドでは勝つことはできないと分かっていたので、もともと得意だった勉強に、より打ち込むようになりました。

みんなに見てもらえるために、みんなに愛されるために、みんなの輪に入るために、血のにじむような努力をし続けました。

どのようにしたら勝てるかわからなかったからこそ、成績や学歴といった目にみえてわかりやすいデータを得ていくことで、兄に勝ち続けていきました。

そうすると、次第に周りから関心を寄せられ、認められ、愛されるようになった感覚がありました。

だからこそ、やめられなくなりました。

そして、その補償行為には終わりがありませんでした。

いつまでたっても満たされることがない。

どこまでいっても終わることがない。

最初は嬉しかった賞賛も、次第に「勉強ができるから、努力しているから、良い子だから」褒めてくれるだけなんだと感じるようになり、本来の自分はやっぱり愛されないのだと逆に虚しさを感じることもありました。

でも、相手よりも秀でていない自分は愛されることがないから、努力することも相手と比較競争することもやめられなくなっていました。

いつまで頑張ればいいのか、どこまでやればいいのか、どこまで手に入れられればいいのか。

実体のない充足を求めて、終わりのない暗闇の中をただ闇雲に走っているような感覚でした。

愛され続けるために、注目され続けるために、勝ち続けなければならなかったですし、それを終えてはいけないような気さえしていました。

 

昔、兄に対する劣等感をはっきりと感じたことがありました。

それは、兄の反抗期のときのことでした。

兄は思春期に入ってから、それまで頑張っていた音楽を一切やらなくなりました。

努力しなければ愛されないと思っていたわたしは、兄のことが本当に理解できませんでしたし、そんな兄に対して、強い嫌悪感と怒りを感じていました。

「わたしは愛されるためにこんなに血のにじむような努力をしているのに、なんで兄は努力をしないんだ」

どうして愛されるために頑張らないんだと、強い怒りがわいてきたのを覚えています。そして、それと同時に、兄は頑張らなくても愛されることが分かっているのだということも理解できてしまい、それに対する自分の無価値観、劣等感がさらに浮彫りとなり、とても苦しい時間を過ごしたことを覚えています。

 

そして、根本さんに質問されて気が付いたのは、わたしは今でも兄に対して嫉妬や劣等感を抱えているということでした。

今は、兄にとってはわたしの方が夢を叶え、欲しいものを手にしていて、嫉妬の対象となっています。

でも、わたしの中では、反対の思いが渦巻いていました。

今わたしの方が兄よりも勝っているのだとしたら、それはわたしが血のにじむ努力をしてきたからであって、もしわたしが少しでも手を抜いたり、兄が本気を出してしまえばその立場なんていつだって簡単に逆転することが分かっているからです。

そのことを根本さんに話したとき、それくらい、わたしにとっては兄が天才だということは揺るぎない事実であり、そして、いまだに兄に対する劣等感や嫉妬をこんなにも強く感じているのだと思いました。

 

根本さんの「痛み」についての質問に答えているうちに、いろんな感情が蘇ってきてわっと溢れました。一体、悲しいのか、苦しいのか、辛いのか、そこにあるのが何の感情なのか全くわからないけれど、その気持ちを代弁するかのようにただ涙が溢れてきました。

 

自分の中に、まだこれだけの痛みがあったんだと、改めて感じました。

 

その後、根本さんがワークをくみたててくれました。

ワークはいたってシンプルで、母と兄を投影する方を会場から選び、目の前に立っていただきました。

 

そして「ずっと、こう見えていたんだよね」と、

母役と兄役の人がお互いに向き合い、その様子を遠くからわたしが眺めているポジションになりました。

それを見た瞬間、人は違えど、あの時の感覚がよみがえってきて、あの時感じていた寂しさや孤独感、疎外感が溢れてきました。

目を背けていた寂しさが顔を出したような気がしました。

 

「じゃあ、お母さんに見てもらえるようにするためには、どうしたらいいと思う?」

 

わたしの中では兄が行く手を阻み、母の愛を取っている感じがしたので、兄をそこからどかして自分がそこの位置に立つ方法しか思い浮かびませんでした。

 

「そうだよね。でもそれはすごく大変だよね。本当は、もっと簡単にできるんだよ。」

 

そう言って、根本さんは兄をどかすことなく母の目の前にひょこっと顔を出し、愛嬌いっぱいに笑顔で手を振っていました。

 

「ね、簡単でしょ。こうすれば良いんだよ。」

 

母に愛されるためには、みんなの輪に入るためには、兄のポジションを奪わなければならないと思っていました。そこに用意された椅子は1つだけで、競争で勝った人だけがそこに座れるのだと思っていました。

だから、わたしはずっと、母からの関心を得て、母から愛されるためには、兄との比較競争で勝って、兄の立っている場所に自分が入り込んでいかなければならないのだと思っていました。

 

「無邪気さを抑えなければならなかったんだね」

 

本当にその通りだと思いました。

子供ながらの無邪気さや愛嬌で、母親にこっち見てよ!とできたらよかったのに。兄との比較競争の中でひとりで戦ってきたので、求める愛情は同じはずなのに、そこには愛嬌も無邪気さも抑圧し、誰にも助けを求めず、一人突き進んでいく自分しかいなかったのです。

 

そして、ワークでは、わたしの前に兄が立ち、その後ろに母が立って、わたしが兄の方に歩いていくことでスタートしました。そして、兄の目の前にいったら、ひざまずくよう言われました。

 

兄のところに歩いて行って、目の前でひざまずきました。

 

「わたしの負けです」そう、言いなさい。

 

涙が溢れて止まりませんでした。

負けないようにがんばってきたのに。

負けたら皆からの愛や関心が得られないと思って頑張ってきたのに。

「負け」は、私の中では死と同じものでした。

負けてしまったら、わたしはまた一人になってしまう。

誰にも見てもらえず、誰にも愛してもらえなくなってしまう。

負けとは、自分をまた、孤独感、疎外感、無価値観に沈み込ませていくものでした。

だからこそ、負けることなんてできませんでした。

負けることなんて、許されませんでした。

 

「負けを認めたら、どうなってしまうんだろう」

 

そんな思いが頭の中を駆け巡りました。

でも、どこかで、もうそんな苦しい生き方もやめたかったのだと思います。

負けを認めた先を見てみたいとも、感じました。

そしてそれができるのは、皆がいる今でしかできないとも思いました。

 

「わたしの負けです」

そういったとき、長年のせき止めていた思いが溢れてきました。

悲しいし悔しい気持ちもありましたが、どこか心の荷物が下りたような、「もう戦わなくていいんだ」とほっとした自分がして、どこか安心した気持ちにもなりました。

 

でも、さらにここで、こう言われました。

「お兄さんに、謝りなさい」

 

ずっと苦しい思いをしていたのはわたしなのに、どうしてわたしが謝らなければいけないんだと思いました。

むしろ、あやまってほしいくらいなのに。

それくらい、辛い思いをしてきたのはわたしなのに。

嫌だ、言いたくない。

こんなに辛い思いをしてきたのに、どうして、なんで。

 

戸惑いと混乱と抵抗で、気持ちがぐしゃぐしゃになっていました。

嫌だ、嫌だ。という思いが強くでてくる反面、

もう、抵抗することをやめて身をゆだねようとも思いました。

もう十分頑張ってきた。そんな気持ちにもなりました。

 

「ごめんなさい」

 

そうお兄ちゃんに謝った時、どうしようもなく泣けてきてしまって、子供のようにワンワン泣いている小さな自分が心の中にいました。

ああそっか、わたし、本当はずっと謝りたかったんだと思いました。

一人で勝手に敵対視して、一人で勝手に孤独になって、一人で勝手に殻にこもって。

一人で勝手に競争して、一人で勝手に傷ついて、一人で泣いて、怒って、拗ねて。

 

もしかしたら、手を差し伸べてくれたことがあったかもしれません。

もっと頼ってほしいと思ってくれたこともあったかもしれません。

でも、そんな兄の全てを拒絶して、そんな兄に嫉妬して、嫌って、向き合おうとしてきませんでした。

本当は、ずっと、兄に謝りたかったのかもしれません。

もう、意固地になることなく、素直に自分の負けを認めて、素のままの自分でいたかったのかもしれません。

今まで素直でいられなくて、辛い思いをさせてしまってごめんなさい。

 

兄に謝ったことで、ようやく自分をつないでいた鎖がとれたような、ようやく自由の身になれたような、そんな気持ちがしました。

ようやく、自分はこの競争から解放されたのだと思いました。

 

そして、根本さんが兄役の方に、「そんなわたしを見てどんな気持ちがしましたか」とたずねました。

その方が「僕だってあなたを羨ましいと思っていた」と言ってハグしてくれた時、なんだ、同じことを感じていたのか、と思いました。もう、競争しなくてもいいんだと、そんな安心感を感じました。

そして「そんな二人を眺めている母はどんな気持ちだと思う?」と聞かれて、母役の方を見上げたとき、「大好きな二人が争っている姿を見るのは心が痛む思いがしたし、辛かったんだろうな」と思いました。母にとっては、きっと、同じくらい大好きで大切な存在同士が傷つけ合っているのを目の当たりにする辛さもあったのかもしれません。

 

母役の方が兄とわたしを抱きしめてくれたとき、比較競争なんて、しなくてもよかったのかもしれないなと、感じました。

 

そんなふうにして、わたしのセッションは終わりました。

終わりに、根本さんから言われた言葉がとても深く心に響きました。

 

「比較競争を手放した先には、リーダーシップがあるんだよ」

 

今まで比較競争に使ってきた自分の才能や能力を、今度はそれを必要として待っている人に使っていってあげるんだよ。

もう、比較競争している暇なんてないよ。

 

比較競争に意識が向いている時、自分の能力やエネルギーは全て内側に向いており、それが本来の姿ではなく抑圧されているようにも思えました。

今、本業にも向き合い、そして心理カウンセラーとしても一歩を踏み出そうとしている時にもらったその言葉は、根本さんからの素敵な「はなむけの言葉」のようにも感じました。

 

比較競争を手放した先へ。

兄への負けを認め、懺悔したことで、自由の身になりながら。

自分の能力や才能を、それを必要とする方へ与えていけたらと思います。

 

長くなってしまったので、今回は2部に分けて書こうと思います。

次回は、隠し続けてきた、女性の敵である大嫌いな自分について。

今までずっと抵抗があり書いてこれなかったのですが、

リトリートでそんな自分をさらけ出す勇気が持てたので、それについて書いていこうと思います。

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