愛に生きる。

【ご感想】個人カウンセリング 初回モニターセッション

こんばんは。

医師×心理カウンセラーのみらいです。

 

個人カウンセリングの初回モニターセッションを受けてくださった方から、ご感想をいただきました!お話しに来てくださり、ありがとうございました。

 

おかげさまで2月のモニター募集も満席となり、明日から3月の個人カウンセリングのモニター募集を読者様先行で開始しようと思います。

新学期・新年度前にお話したいことがある方、心を少しでも軽くしたい方、誰にも話せずモヤモヤした気持ちを抱えている方、とにかく話を聞いて欲しい方など。

少しでも気になっている方がいらっしゃいましたら、是非お話しに来てくださいね。

 

どんなカウンセラーなの?どんなセッションなの?

と感じていただけた方へ。実際に受けてくださった方の声をブログ記事に掲載しておりますので、どうぞじっくり、ご覧ください。

※過去記事にもご感想がありますので、そちらもよろしければご覧ください。

※いただいたご感想につきましては、順次掲載致します。

 (掲載OKの感想のみ。個人情報に配慮して掲載します。)

 

今回、なぜ当カウンセラーを選んでくださいましたか。

 

【こんな方におすすめです】が私にピッタリだったから・つい、一人で抱え込んでしまって頑張りすぎてしまう人。・誰かに話を聞いてほしいけれど、周りを頼ることができない人。みらいさんのHPを読んでいて、私も似てるな…と思ったからはじめに の以下の文がまさに私だったから ”大丈夫だと平気なふりをしたり、自分に問題があるんだと自分を責めたり、頑張ってないからそう感じるんだとさらに自分に鞭をうって頑張り続ける方が少なくないように思います。そして、最終的には心が壊れてしまうか、身体の不調として出てきたときに初めて、自分が無理をしていたことに気づくことが少なくないように感じています。”

 

 

カウンセリング中の、カウンセラーの印象について教えてください。

 

携帯でカウンセリングを受けたのですが、小さくしか見えないみらいさんが黒髪、大きな黒目でかわいい!という第一印象w言葉がスムーズに流れるわけではないのですが、一生懸命考えて言葉にして質問する感じが伝わってきて、話やすかったです。

 

 

今回のカウンセリングを受けてみて、良かった点や印象に残っている点を教えてください。

 

私、怒ってるんだ…と気づいていそうで気づいていないことがわかった

 

その他

 

提案いただいたアプローチ、やってみようかな、と思います

この後も話をきいてもらいたいな…という気持ちになりました。

カウンセリング後、みらいさんのリトリートのブログを読んで、涙流してました…

ずーーーーーっと抱えている怒りをどうやって癒していけるのか、一枚一枚薄い膜を取り除くかのように、何かをできたらいいな。と思いました。

とりとめのない内容ですが、とても貴重な1時間をありがとうございました。

 

こちらこそ、とても貴重なお時間をありがとうございました。

 

4月以降もより良いメニューを考えながら、個人カウンセリングを募集する予定ではありますが、昨年の10月から始まったお弟子講座も3月末で終わりということで、個人的にも来月が一区切りの時期となります。

 

求めている答えは、実は自分自身の中に既に持っているものだと感じています。

ただ、そこを見に行くには大きな痛みが伴ったり、強い抵抗がでてきてひとりで見に行くことが難しいことがあります。

その時の伴走役となれたら嬉しいですし、このブログ自体も、そのお役に立てたら嬉しいです。

 

ご感想、本当にありがとうございました!

 

form.run

ブログの感想、ご相談、ご質問などあれば、是非ご利用ください。

 

 

 

 

 

ココロノマルシェの回答 ~強い罪悪感の奥にある、深い愛~

こんばんは。

心理カウンセラーのみらいと申します。

 

”ココロノマルシェ”という皆様から寄せられたご相談に、根本裕幸さんのお弟子カウンセラーがお答えしていくサイトがあります。

cocoro-marche.com

 

今回わたしも、この中のひとつのご相談に回答させていただきました。

他人事とは思えないほどよくわかる、ご相談内容でした。

 

 

こんにちは。
医療を学ぶ大学生です。
私はとある選択を大失敗してしまいました。いま思えば、なぜこんな選択をしたのか。過去の自分の考えがあまりにも幼稚で馬鹿で自分勝手だったかを思い知らされました。通常なら間違えないような選択です。
その選択をしてから3ヶ月、ずっとずっと後悔と自責の念に駆られ、本当に毎日辛いです。少しでも辛い気持ちを和らげるため、たくさん調べてたくさん考えてたくさんの方法を試しました。でも、気持ちが少し軽くなったとしても、「自分のせいだ。この辛い状況は自業自得なんだ。自分なんかが楽しく生きていいわけがない。」などと思ってしまい、すぐに辛く苦しい気持ちが襲ってきます。
こんな私でも生きていていいでしょうか。自業自得だけど、辛さから解放されてもいいのでしょうか。どうしたらこの苦しみや後悔から抜け出せるでしょうか。
長文失礼いたしました。 (おもちさん)
 

 

おもちさん、はじめまして。医師×心理カウンセラーのみらいと申します。ご相談文を読んでいて、とてもよくわかるなあと感じていました。

わたしもおもちさんと同じ感情を抱き、来る日も来る日も強い後悔と自責の念に駆られていたことがあります。こんな自分なんていなくなってしまえばいいと、消え入ってしまいたいと感じていたこともありました。きっと、この3ヵ月間は、おもちさんにとって生きた心地はしなかったんじゃないかと思います。

頭の中は常に過去の自分への後悔と責める気持ちが溢れていて、美味しいものを食べても心から味わえない。楽しいことがあっても心から笑えない。嬉しいことがあっても心から喜べない。きっと、そんなふうに感じていらっしゃったのではないかと思います。

そして、自分はそんな楽しい感情を感じてはいけないんだと、ご自身を抑圧して過ごしてこられたのではないかと思います。もしかしたら、この3か月間、そうやってご自身を責めて辛い思いをしながらも、そんな自分を周りに気付かせないように気丈に振る舞い、隠してこられたのかもしれません。

本当はずっと、苦しくて、辛くて、心の中は泣きたい気持ちでいっぱいだったのではないでしょうか。ここではどれだけ弱音を吐いても、苦しい思いを綴っても、誰にも言えなかった思いを叫んでいただいても構いません。おもちさんを責める人は、ここには誰一人としていません。

おもちさんにとってここは、安心して、そういったことをしていただける場だと感じています。

だからどうか、責めたい気持ちでいっぱいなご自身の心に振りかざした拳を少し緩めて、その気持ちの奥にあるご自身の心に、少しずつ触れていけたらと思っています。

 

ご自身のペースで、この先の文章を読んでみてくださいね。

具体的なことについては分からないので、ここからはおもちさんの文章から想像して、一般的なお話しも織り交ぜながら、お話させていただきますね。

 

▷なぜこんな選択をしたのか。過去の自分の考えがあまりにも幼稚で馬鹿で自分勝手だったかを思い知らされました。通常なら間違えないような選択です。この文章を読んだとき、ものすごく、他の誰でもないおもちさん自身がご自身のことを攻撃されているように感じました。

「幼稚で、馬鹿で、自分勝手だった」とご自身を罵倒し、「通常なら間違えないようなこと」だと、まくしたてるかのようにとてもきつく責めていらっしゃるように感じました。まるで、おもちさん自らがご自身に対して、「お前のせいで」と拳を振り上げているような、そんなイメージがわいてきました。

どのような失敗だったのかはわかりません。ですが、もし周りに迷惑をかけてしまったような失敗だったとしても、たとえ周りが、「もう責めなくていいよ」とおもちさんのことを許したとしても、おもちさん自身が「自分は許されてはいけないんだ」と、ご自身を責める気持ちを止めることができないのではないかと感じています。おもちさんを許せないのは、他の誰でもなくおもちさん自身なのではないかと感じました。もしかしたら以前から、おもちさんの中にはずっと「こんな自分は責められなければならない」という思いがあるのかもしれません。

「こんな自分は罰せられなければならない」

という思いをずっと抱いているからこそ、罪悪感を感じるようなことが起こった時に、これほどまでに強く自分を責めてしまうのかもしれません。

そして「こんな自分は許されてはいけない」という思いも抱いているからこそ、時間がたった今もなお、責めることをやめることができないのかもしれません。でも、きっと、その心の奥深くには本当はずっと、深く傷ついてきたおもちさんと本当はもっと、自分のことを分かってほしい、気づいてほしいおもちさんと本当はもう、自分を責めることをやめたいおもちさんがいるのだと思います。「だれか、たすけて」この文章を読んでいて、心の奥深くにいるおもちさんが、そう伝えているような感じがしました。きっと、ご自身を責めなければいけないとずっと感じてきた一方で、本当は、ずっとどこかで、ご自身を責めることをやめたかったのだと思います。おもちさんが、「自分は罰せられなければならない」「自分は許されてはいけない」と感じるようになったのは、いつからなのでしょうか。おもちさんの中で、なにか心当たりのあることは、あるでしょうか。おもちさんの中にあるのはきっと、強烈なほどの罪悪感なんだと思います。それほどまでに強い罪悪感を抱くようになったきっかけを、見に行けたらと思います。おもちさんの過去やご家族について詳しいことはわかりませんが、もし今までにも同じような感情を感じることがあったのだとしたら、おもちさんの幼少期にヒントが隠されているように思います。

もし、お話をうかがえるなら、おもちさんに聞いてみたいことがあります。まず、・「自分は罰せられなければならない」という思いは、以前から抱いていたのでしょうか。・「自分は許されてはいけない」という思いは、以前から心のどこかにあったのでしょうか。そして、・おもちさんのご両親は、どんなご両親でしたか。・おもちさんとご両親との関係は、どのようなものだったのでしょうか。・何か問題が起きたときに、「お前のせいだ」と一方的に責められたことはあったでしょうか。・その時に、「自分の気持ちや状況を受け入れてくれなかった」「自分の言葉を聞いてもらえなかった」という思いを感じたことは、あったでしょうか。・もしくは、どんな状況であれ「きっとこれは自分のせいなんだ」と言い聞かせて、背負っていたことはあったでしょうか。おもちさんの幼少期やご家族についてはわからないので憶測にはなってしまいますが、幼少期に自分の感情や状況を見てもらえることなく、ご両親や周りの人から一方的に怒られたり責められたりした経験がある場合、

大人になってからも何か問題が起きたときに、一方的に自分が悪いんだ、自分はダメだったんだと、まるでご両親にされたように自分に対して怒りを感じ、ひたすらに責めてしまうことがあります。また、ご両親が不仲だったり、機嫌が悪くいつも怒っているような環境にいた場合、「親が怒っていたり、幸せそうでないのはきっと自分のせいなんだ」

と子供は感じてしまうことがあります。

そうすると、大人になってからも、何かしらの不都合があったときに「これはきっと自分のせいなんだ」と、そんな思いを抱いてしまうことがあります。また、幼少期に自分の心が深く傷つくようなことを自分自身がしてしまったとしたら。「こんな自分は決して許されてはいけない」「こんな自分は皆から責められ、罰せられるべきだ」

と、自分で自分を許さないことを心に誓い、大人になってからも自分のことを許せずにいる方もいます。

こうやって、幼少期に感じた様々な心の痛みから罪悪感を抱くようになると、大人になってからも

「自分が悪いんだ」

「自分は罰せられるべきだ」

と強く感じるような状況にあうようになりますし、さらに、

「こんな自分は決して許されてはいけない」

という思いも併せて持つことで、その罪悪感から自分を解放することを自分がさせないようにしているという状況を生むこともあります。もしかしたら既に扱ってきている内容かもしれませんが、今のおもちさんにとっては、罪悪感を抱くようになったおもちさんの過去と、自分は許されるべきではないという思いを感じるようになったきっかけについて、今一度向き合っていくのが良いのかもしれません。

向き合い方について、おもちさんには二つの方法をご紹介しようと思います。どちらか片方のみでも良いですし、両方試していただいても構いません。

 

ノートを1冊用意してください。(携帯などのメモ機能でも構いません)

ご自身の過去を振り返りながら、思い返した時に湧き上がってきた感情を、ノートにぶつけていきましょう。頭で考えるよりも、湧き上がってきた感情をただノートに文字として書き起こしていくようなイメージで。

感情をそのまま目に見える形で書き表すように、そこに感じるのが大きな怒りなら、大きな文字で書きなぐってみてください。ノートを突き破るくらいに強い筆圧で書いていただいても構いません。

胸をえぐるような苦しみ、深い悲しみ、強烈な孤独感なら、それに似合う文字の大きさ、筆圧の強さ、濃淡の濃さ、乱雑さ、文字の形などを思うがままに表現してみてください。そうやって、自分が今まで誰にも言えずに心の内に抱えてきた思いを、ノートに吐き出してみてください。

これほどまでの強い思いを抱いていたのかと、感じられるかもしれませんし、書いても書いても溢れてきて止まらないという感覚になるのかもしれません。

また、もしかしたら何も出てこないときもあるかもしれません。その時は、「何も出てこない」「何も感じない」という今の心の状態を、書き表してみてください。

そして、何も出てこないときは無理にだそうとせず、「何も感じない」というご自身の心情を、文字を通して眺めていてください。そうして過ごしているうちに、必要な時に、必要な情報がおりてくると思います。

子供の頃の自分を投影するぬいぐるみを、ひとつ選んでください。

子供の頃の自分を抱きしめてあげるように、そのぬいぐるみを抱きしめてあげてください。ご自身が罪悪感を抱くようになったきっかけや、自分を許さないと決めたきっかけがあるのであれば、それを思い返しながら。こう、伝えてあげてください。

「よく、頑張ってきたね」「本当はしんどかったんだよね」「本当は辛かったんだよね」「本当は、ずっと、苦しかったんだよね」「本当は、自分のせいだなんて、自分を責めたくなかったよね」「本当は、自分の言い分だってあったよね」「本当は、もっとみんなに、自分のことを聞いてほしかったよね」

今まで頑張ってきた自分を慈しみ癒すように、そのぬいぐるみのことをぎゅっと抱きしめ、慈しみ、労わってあげてください。幼少期のおもちさんは、なんと言っていますか。何を伝えたそうに、しているのでしょうか。

本当は、伝えたかったこと、言いたかったことが沢山あったんだと思います。でもきっと、それらの言葉を誰かに伝えることは、なかったんじゃないかと思います。

大人になったおもちさんが、その思いをただ聴いて、受け止めてあげてくださいね。そして、ここからは個人的な考えになるので、読み流していただいても構いません。

もしかしたら、おもちさんは心のどこかで、「自分を許さないこと」で自分を守ってきたのかもしれないなと感じました。自分で自分を罰し、許さないことで、「これほどまでに自分のことを罰しているのだから、もう許してください」そう、周りに許しを乞うているのかもしれません。

厳しい自罰と引き換えに、これ以上周りが自分を罰し、責めることを防いでいるのかもしれません。もうこれ以上自分が傷つくことから、自分を守っているのかもしれません。そして、もしそうだとしたら、だからこそ自分を罰することをやめられなかったのかもしれません。

やめてしまったら、周りから攻撃されてしまうかもしれないから。それならば、自分が自分を罰しようと、選択してきたのかもしれません。そこには、それほどまでに深く傷ついたおもちさんがいるのだと思います。そして、この究極の選択をするほど、本当に自分を守りたかったんだとも感じています。自分を許すことができないという心の裏側には、このような思いも隠れているのかもしれないなと感じました。

強烈なほどの罪悪感も、自分を許さないと決めた思いも、その奥にあるのは自分や周りに対する深い愛故だと感じます。

ご両親のことも、周りのことも、大切で守りたかったからこそ、何かあったときに自分のせいにすることを選び続けてきたんだと思います。そして、こんなことをした自分は許されるべきではないと、自分に深い罪の意識を植え付けたんだと思います。

そして、ご自身のことも、これ以上傷つけたくないと、守り続けたかったんだと思います。おもちさんは、それほどまでに、自分や周りを大切にしたかったんだと思います。

おもちさんの愛はそれほどまでに、大きかったのだと思います。きっと、この3ヵ月間ずっと向き合ってこられたと思いますし、できることは全てやってきたと思います。

もし、おひとりで向き合うのがこれ以上は難しいと感じたときには、おもちさんが安心できる場所で、信頼できる方に、ぜひ頼ってみてくださいね。そのツールのひとつとしてカウンセリングを使っていただくのも、良いのかもしれないと感じています。これほどまでに周りを大切にし、大きな愛をもつおもちさんは、きっと素敵な医療関係者になられるのではないかと感じています。

同業者として、とても素晴らしい素質を持つ方だなと、読んでいて感じました。

おもちさんのことを心から、応援しています。

【その②】3daysリトリートセミナーの感想 & 隠し続けてきた大嫌いな自分

こんばんは。

心理カウンセラーのみらいです。

 

今日は、ずっと認めたくなかった、女性の敵である大嫌いな自分について、書いていこうと思います。

 

ここからは個人的な思いを、ありのままの言葉にして書いていこうと思います。

 

・嫉妬深い

・独占欲が強い

・気が強い

・男好き

・あざとい

・周りにいる全ての男性からの愛を求めている

・他の人のものが欲しくなってしまう

 

みなさんは、こんな女性のことを、どう思いますか。

わたしは、こんな女性のことがずっと、大っ嫌いでした。

 

欲望に忠実で、自由人で、わがままで、気が強くて、男好きで、あざとくて、他の人のものにまで手をだそうとする。

そんな、わたしが思う”女性らしさ”というものを全開にして生きていて、まるで”女性の敵”となるような女性のことが、大嫌いでした。

相手の中にそのような要素を感じると、自然と苦手意識を持ち、無意識に距離をとり、” この人は女性の敵だ ” と、相手に対して嫌悪感や敵対心まで抱いてしまうこともありました。

 

そして、この大っ嫌いだった

”男好きで、あざとくて、他の人のものにまで手をだしてしまいそうな、女性の敵である女性” とは。

それは紛れもなく、”わたし自身” のことだったのです。

 

自分の中にそんな女性像があるなんて、微塵にも感じていませんでした。

むしろ、嫌っているからこそ、ずっと正反対の自分であり続けようとしていました。

 

・感情的な自分を蔑んでいたので、理性的に振る舞うようになりました。

・嫉妬はみじめな気持ちにさせるので、抑圧して気が付かないふりをして生きてきました。

・独占欲は依存的で相手に負けた気持ちになるので、できるだけ相手を自由に、理解ある女性として振る舞おうとしていました。

・気が強い女性は嫌われると思っていたので、できるだけ物腰柔らかな、自分の意見は主張しない、理解ある、包容力のある女性であろうとしました。

・男好きだなんて、ふしだらで遊び人で女性として良い印象を与えないと思っていたので、男好きと思われないような振る舞いをしていました。

・男性に対してあざとい女性は同性から嫌われるので、男性に対しては友人のように対等で、フラットに接することを心掛けていました。

・他の人のものを欲しがるなんて最低で、それこそまさに”女性の敵”だと思っていたからこそ、そう感じてしまう自分を抹消して生きてきました。

 

こうやって文字にすると、いかに自分がその要素をふんだんに持ち合わせていて、そしていかにその部分を嫌って抑圧してきたかがわかるような気がします。

 

だからこそ、今までは正反対の自分で生きてきたし、 ”女性の敵” となり ”女性から嫌われる自分” が嫌だったからこそ、女性の敵にならないように振る舞ってきたんだと思います。

 

そんな自分を初めて指摘されたのは、根本さんの個人セッション中でした。

言われた瞬間は「えっ、いやいや・・、まさか。」とびっくりしましたが、その直後に、ものすごい安心感に包まれたのを覚えています。

 

やっと、自分のことを見つけてくれた人がいた。

ようやく、自分のことを分かってくれる人がいた。

と、そんな思いが心の底からわきあがってきました。

 

大嫌いで否定し続けてきて、自分ですら気が付いていなかった部分だったからこそ、

「本当はそんな部分があるんだと思うよ」と言われたときに、

ようやく、心の奥深くにいてずっと否定され続けてきた自分の存在が認められたような、

ようやく外に出ることが許されたような、

真っ暗闇のなかにいたそんな自分に一筋の光が差し込んだような、そんな気分がしました。

 

はじめて、そんな自分を外に出してもいいんだよと言ってもらえたような気がしました。

表できれいな自分を生きてきたわたしに、はじめて、その汚れた部分を表にだしていいんだよ、と言ってくれたような気がしました。

自分の気持ちが、とても軽くなって喜んでいるような感じがしました。

 

 

でも、やっぱり一人で向き合うのは難しいなとも感じました。

頭ではわかっていても、そんな自分を外にだしていくのは心では怖いし、

そんなわたしはみんなに嫌われてしまうし、

隠しておけるのであればずっと隠していたいという気持ちにもなりました。

 

時間が経つにつれて、

「せっかく今まで自分の汚い部分を隠して生きてきたのだから、わざわざ汚れた部分なんて、見せなくてもいいのかもしれない。」

そう思うようにもなりました。

 

そう思ってしまうくらい、隠してきた自分を出すことは、わたしにとってはとても怖いことでした。

みんなに嫌われてしまうのではないか、という思いも然り、

汚い自分を隠しているときにはその自分の存在を感じずに済むからこそ、表にだしてしまったら、嫌でも自分の中にはそんな自分がいるということを認めなければいけないことへの葛藤もありました。

 

根本さんに「そんな隠してきた自分のことをブログに書いてみなさいな」と言われてから、そんな葛藤を自分の中で感じるようになり、

お弟子の課題だのリトリートだのと色々と理由をつけては、のらりくらりと、ブログに書くことを避けている自分がいました。

 

でも、そんな時に参加したリトリートで、否認し続けてきた自分自身をさらけ出そうと思えた出来事がありました。

 

それは、わたしがフォーカスパーソンになって、兄との競争を手放すワークをした後でした。

みんなの前に立つ機会がありました。

 

その場にいる、みんなの視線を一身に受けながら。わたしが否定し続け、隠し続けてきた、女性として忌み嫌ってきた部分を、皆の前で開示する機会がありました。

 

根本さんがわたしのことを「女性の敵だよね」と、その場にいる皆さんに紹介してくれました。

 

みんなうんうん、と頷きながら、わたしを見ていました。

 

そのとき、隠したがっていた自分がみんなに開示されているのに、

あんなにも怖がっていたみんなからの視線や頷きが全然嫌じゃないな、と感じました。

 

むしろ、そんなわたしがいてもいいと言われているような気持ちになりました。

そんなわたしの存在を、許してもらえたような気がしました。

 

「ほんとだよね、女性の敵だよね。」

「でも、それがわたしだし、そんなわたしであってもいいんだよね。」

 

その会場の皆さんの空気を受けて、初めて自分が自分に対してそう感じてあげることができました。

 

この時、実はものすごく心があたたかくなって、涙が溢れそうになったのをこらえていました。

 

そっか、こんな自分も自分なんだ。

どれだけ汚れていると思っていても、どれだけ忌み嫌っても、そんな自分も存在しても良かったんだ。

はじめて、否定し続けてきた自分をみんなの前に出すことを受け入れられた瞬間でした。

 

 

「この場では、そんな自分でいてもいいのかもしれない。」

そこからは、そんな気分になりながら、リトリートを過ごしていました。

 

 

そして、その後、自分ととてもよく似た思いを抱いている方のセッションがありました。

 

その方が怖さを乗り越え、勇気を出して、隠し続けてきた自分とつながるセッションを見た時、わたしは否定し続けてきた自分のことを、ブログに書こうと心に決めました。

 

わたしが自分のことをさらけ出す意味を、そのセッションを通して感じたような気がしました。

 

認めたくない、見たくない自分自身を認め、受け入れていくことは一人では難しいと思いますし、相当な恐怖と勇気がいると思います。

 

その方のセッションを見た時、わたしは自分のこの経験が同じように悩んでいる方の何かになれたらいいなと思いました。

そして、だからこそ、まずはわたしが否認し続けてきたわたし自身を認め、受け入れていくことが大切なんだと思いましたし、

そして、その姿をブログなどで発信していくことに意味があるのだと、感じました。

 

ここからは後日談ですが。

リトリート後、否定し続けてきた自分を少しずつ認めながら、服装も、少しずつ変えてみることにしました。

今までなら絶対に着てこなかったような、認めたくなかった自分の女性像に似合うような服。

男好きで、あざとくて、女性らしさを存分に出しているような服。

 

そんな服を着ている自分なんて見たことなかったのですが、それを着たとき、どこかスッキリした気持ちの自分がいました。

とても馴染んでいて、自分らしいというか、「ああ、これこれ」というようなすごく内側から自分らしさが溢れてくるような気持ちになりました。

 

今までの服装もどちらかといえば女性らしさがあって好きなスタイルだったのですが、今回違う服装を着てみたら、今までの自分はどこか殻をかぶっていたような、本当の自分を隠していたような気持ちにもなりました。

 

そして何よりも、周りからも「そっちの方が似合うよ」とか「そっちの方がらしさが出ていて好き」と言ってもらえて、どこかご満悦ですごく嬉しかった自分がそこにはいました。

 

今までずっと否定し隠し続けてきた自分を認め外に出すことは、

こんなにもあたたかな気持ちにさせてくれるものなのだと、

こんなに心は満たされるものなのだと、

その感じたことのないあたたかさにじんわりと浸りながら、今は過ごしています。

 

・嫉妬深い

・独占欲が強い

・気が強い

・男好き

・あざとい

・周りにいる全ての男性からの愛を求めている

・他の人のものが欲しくなってしまう

 

本当のわたしは、そんな女性でした。

本当のわたしは、そんな、女性から嫌われるような、女性の敵になるような女性でした。

 

そして、わたしは、そんな自分と共に生きていこうと思います。

否定し、隠していくのではなく、そんな自分も自分なのだと認めて、きれいな自分だけで生きることはもう無理だと降参して、受け入れて、生きていこうと思います。

 

そして、このブログが、同じように悩んでいる誰かの心に届いたら幸せです。

このブログが、読んでくださっている誰かの、何かひとつの指針になれば嬉しいです。

 

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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【その①】3daysリトリートセミナーの感想 & 隠し続けてきた大嫌いな自分

こんばんは。

心理カウンセラーのみらいです。

 

今回、根本裕幸さんの3daysリトリートセミナーに参加してきました!

1dayは何度か参加したことはありましたが3daysへの参加は初めてでした。

3日間 自分と向き合い続け、身も心もぼんやりしたあとはその余韻に浸りながら今まで過ごしていました。

 

今日は、リトリートセミナーの中で見えてきたこと、そして「ずっと隠し続けてきた大嫌いな自分」について、さらけ出す勇気が持てたので書いていこうと思います。

 

リトリートセミナーでは、フォーカスパーソンを一人決めていきます。

その人の悩みに対するセッションを通して、各々が自分の感情と向き合っていくというプロセスを、何人も何人も繰り返しやっていきます。

 

今回、わたしはフォーカスパーソンの中の一人となりました。

私の悩みは、「大嫌いな上司がいる」ということでした。

 

その上司は、以前の職場にいた方でした。

とても優秀で努力家で何でも出来てしまう一方で、とても厳しく、場の空気を張り詰めさせてしまうような人でした。

 

一緒に働くことになったとき、わたしも仕事に対して強い熱意を持っていたので、必死についていこうと誰よりも努力したり、勉強したりしていました。

できることがあれば全てやり、わからないことがあればどんどん質問していきました。

そんな中で他の方とは打ち解けあい、認められるようになっていきましたが、その上司だけは全くかみ合わないような感じがありました。

むしろ、どれだけ頑張っても歯車がちっともかみ合わず、自分のやることなすこと全てが裏目にでてしまうような感じ。頑張れば頑張るほど空回りしていくような感覚さえありました。

こんなにも真面目に頑張っているのに、何をしてもダメなような感じがする。何をしても相手の癪に触ってしまう。なぜだろうと思う一方で、逆にわたしも、相手の存在に嫌悪感を抱くようになりました。

 

恐怖心や威圧感を利用することで、周りに自分のことを認めさせるのを強要する一方で、

「自分だけが一番で、周りは信用するに値しないほど能力が低い」

「自分の言うことだけが正しくて、周りの意見なんて聞いていない」

そんなふうに周りのことを見下し、わざわざそれを周りに言いふらしてしまうような人でした。

そんな、相手の中にある攻撃的で暴力的で自己中心的な自己顕示欲と承認欲求を目にするたびに、相手への嫌悪感がわたしの心を埋めていくような感じがしました。

 

お互いにお互いが大嫌いだったんだと思います。

次第に、お互いに距離をとるようになっていきました。

距離をとれば解決するかと思っていましたが、でも、その後職場が変わっても、仕事中に何かのきっかけで相手のことを思いだし、常に監視されてダメ出しをされ続けているような感覚になりました。

こんな自分ではだめだと言われ続けているような感覚になり、相手から逃れられないような気分になりました。

 

物理的に離れても、意味がない。

きっと、問題は自分の中にあるのだから、なんとかしなければならない。

きっと、「投影」や「シャドウ」なのだろう。

自分の中に嫌っている要素があって、それを相手に投影しているんだろう。

そう思い、何度も何度も自分と向き合ってきましたが、一向に気持ちは改善されない。

長い時間をかけても解決の糸口を見つけることはできず、次第に諦めるようになっていきました。

そして、物理的に離れていることが救いでもあり、次第に相手のことを意識の奥に沈めていき、あえて思い出さなくもなってきていました。

 

そんな中、今回のリトリートセミナーに参加することを決め、日にちが近づいてくるにつれて、忘れかけていた上司のことをなんとなく思い出すようになっていました。

それだけ強く抱き続けている相手への嫌悪感と執着心について、相談してみようと思いました。

 

「相手のどんなところが特に嫌いなの?」

 

根本さんに聞かれたとき、やはりそこには攻撃的で暴力的で自己中心的な、強烈なほどの自己顕示欲と承認欲求だと感じました。

 

そして、それはやはり、

わたしの中にも同じように攻撃的で暴力的で自己中心的な、強烈なほどの自己顕示欲と承認欲求があり、そこを「大嫌い」だと感じているからこそ、相手に対しても同じくらい嫌悪感を抱くのだということでした。

 

でも、話はそこからもっと深いところへと進んでいきました。

 

詳しくは根本さんのブログに書いてありますが、

nemotohiroyuki.jp

相手の大嫌いな部分は実は自分も持っているもの。

→そこを嫌っているからこそ、それを抑圧して生きるようになるし、それを出す相手に嫌悪感を感じるようになる。

→自分の中にあるその部分に対する嫌悪感が強ければ強いほど、相手に対する嫌悪感も強くなる。

→自分の中にある大嫌いな部分の奥には”こうしてほしかった”という「ニーズ」があり、その奥にはそれだけ強い「痛み」がある。

→そしてさらにその奥には、その人が”talent”としてではなく、”gift”として授かった「才能」がある。と教えていただきました。

 

(「問題(痛み)の裏に才能がある」

たまに目にする言葉ではありますが、まだ自分の中では実感として腑に落ちてはいません。でも、そうなのかもしれないし、それが本当なら自分の中で”問題”の捉え方が変わってくるかもしれないなと感じています。)

 

そして、今回のセッションではそんな「痛み」について、フォーカスしていきました。

 

「なにか心当たりはある?」

 

そこまで強い自己顕示欲と承認欲求を抱くようになった「痛み」のルーツについて聞かれたとき、思わず涙が溢れてしまいました。

わたしの中で、そう聞かれたときに思い出したことがありました。

それは、母と兄の存在が大きく関わっていたように思います。

 

わたしの兄は天才肌で、芸術家タイプでした。

音楽の才能があり、コンクールでは金賞が当たり前、その界隈では一部名が知れ渡るようになっていきました。母親は兄に注力するようになり、兄が母の愛を独り占めしているような感じがしていました。

また、兄は表現力もずば抜けていて、音楽のみならず、授業参観で音読をしたときに他の親御さんが涙を流したり、トーク力も抜群で子供ながらに大人をも楽しませることができるので、親族の集まりでは兄の周りには常に人が集まっていました。

みんな、兄に注目して、関心を寄せている感じでした。

みんな、兄と話したいと、兄の周りに積極的に集まり、兄と話すことですごく楽しそうな表情をしていました。

 

天才で、表現力が豊かで、みんなを惹きつける魅力のある人。

無条件に愛されて、大切にされて、注目される人。

みんながこの人と過ごしたいと思わせるような人でした。

 

その一方で、私は自分のことを真逆のように感じていました。

兄のような才能はないし、能力もないし、芸術肌でもない。

まじめでつまらない人間だから、誰もわたしとの会話を楽しんでくれない。

わたしと一緒にいたいと思って寄ってきてくれる人なんて誰もいない。

わたしには何の魅力も取柄もないから、誰も注目してくれないんだ。

 

幼稚園~小学校低学年あたりから、ずっとそうやって感じていました。

幼稚園の先生からの連絡簿に「切り絵の時間に、お兄さんは自由にいろんな形に折り紙を破ってのびのびと表現していました。逆に、妹さんはひとつひとつ同じ形に切って、端からきちんと整列させて並べていました。」と書いてあるのをたまたま目にしたときに、一人部屋に閉じこもって、ワンワン泣いてしまった記憶があります。

 

「やっぱり、わたしってつまらない人間なんだ」

兄のような才能なんてなくて、面白みのない、つまらない人間なんだと自分の中で感じていたことを、連絡簿を通じて”やっぱりそうなんだ”と実感させられたような気持ちになりました。

幼稚園の先生がそんな意図をもっていないことくらい、わかりました。でも、それを読んでそう感じてしまうくらい、その時の自分は苦しんでいたんだと思います。

 

わたしがもっと兄のように才能や能力があり、皆を引き付ける魅力があれば、わたしはもっとみんなに関心を寄せられて、愛されていたのに。

小さい頃のわたしの親族の中でのイメージは、親族が兄を取り囲んでいて楽しそうに輪になっている外側で、わたしはひとりポツンと、その様子を見ているだけの人でした。

 

”みんなにわたしを見て欲しい。注目してほしい。関心を寄せて欲しい。

愛してほしい。大切にして欲しい。わたしといて、楽しいと思ってほしい。”

小さい頃のわたしはずっと、その思いを抱えながら生きていたように思います。

そして、その対象は親族であり、特に母に強く感じていたように思います。

 

そんな自分がみんなに注目され、愛されるためにはどうしたらいいのか。

みんなの輪の中に入れるためにはどうしたらいいのか。

”兄を超えていくしかない”

わたしの中でずっとなにかを求め頑張ってきたのは、そんな思いから来る補償行為だったんだと思います。

 

兄と同じフィールドでは勝つことはできないと分かっていたので、もともと得意だった勉強に、より打ち込むようになりました。

みんなに見てもらえるために、みんなに愛されるために、みんなの輪に入るために、血のにじむような努力をし続けました。

どのようにしたら勝てるかわからなかったからこそ、成績や学歴といった目にみえてわかりやすいデータを得ていくことで、兄に勝ち続けていきました。

そうすると、次第に周りから関心を寄せられ、認められ、愛されるようになった感覚がありました。

だからこそ、やめられなくなりました。

そして、その補償行為には終わりがありませんでした。

いつまでたっても満たされることがない。

どこまでいっても終わることがない。

最初は嬉しかった賞賛も、次第に「勉強ができるから、努力しているから、良い子だから」褒めてくれるだけなんだと感じるようになり、本来の自分はやっぱり愛されないのだと逆に虚しさを感じることもありました。

でも、相手よりも秀でていない自分は愛されることがないから、努力することも相手と比較競争することもやめられなくなっていました。

いつまで頑張ればいいのか、どこまでやればいいのか、どこまで手に入れられればいいのか。

実体のない充足を求めて、終わりのない暗闇の中をただ闇雲に走っているような感覚でした。

愛され続けるために、注目され続けるために、勝ち続けなければならなかったですし、それを終えてはいけないような気さえしていました。

 

昔、兄に対する劣等感をはっきりと感じたことがありました。

それは、兄の反抗期のときのことでした。

兄は思春期に入ってから、それまで頑張っていた音楽を一切やらなくなりました。

努力しなければ愛されないと思っていたわたしは、兄のことが本当に理解できませんでしたし、そんな兄に対して、強い嫌悪感と怒りを感じていました。

「わたしは愛されるためにこんなに血のにじむような努力をしているのに、なんで兄は努力をしないんだ」

どうして愛されるために頑張らないんだと、強い怒りがわいてきたのを覚えています。そして、それと同時に、兄は頑張らなくても愛されることが分かっているのだということも理解できてしまい、それに対する自分の無価値観、劣等感がさらに浮彫りとなり、とても苦しい時間を過ごしたことを覚えています。

 

そして、根本さんに質問されて気が付いたのは、わたしは今でも兄に対して嫉妬や劣等感を抱えているということでした。

今は、兄にとってはわたしの方が夢を叶え、欲しいものを手にしていて、嫉妬の対象となっています。

でも、わたしの中では、反対の思いが渦巻いていました。

今わたしの方が兄よりも勝っているのだとしたら、それはわたしが血のにじむ努力をしてきたからであって、もしわたしが少しでも手を抜いたり、兄が本気を出してしまえばその立場なんていつだって簡単に逆転することが分かっているからです。

そのことを根本さんに話したとき、それくらい、わたしにとっては兄が天才だということは揺るぎない事実であり、そして、いまだに兄に対する劣等感や嫉妬をこんなにも強く感じているのだと思いました。

 

根本さんの「痛み」についての質問に答えているうちに、いろんな感情が蘇ってきてわっと溢れました。一体、悲しいのか、苦しいのか、辛いのか、そこにあるのが何の感情なのか全くわからないけれど、その気持ちを代弁するかのようにただ涙が溢れてきました。

 

自分の中に、まだこれだけの痛みがあったんだと、改めて感じました。

 

その後、根本さんがワークをくみたててくれました。

ワークはいたってシンプルで、母と兄を投影する方を会場から選び、目の前に立っていただきました。

 

そして「ずっと、こう見えていたんだよね」と、

母役と兄役の人がお互いに向き合い、その様子を遠くからわたしが眺めているポジションになりました。

それを見た瞬間、人は違えど、あの時の感覚がよみがえってきて、あの時感じていた寂しさや孤独感、疎外感が溢れてきました。

目を背けていた寂しさが顔を出したような気がしました。

 

「じゃあ、お母さんに見てもらえるようにするためには、どうしたらいいと思う?」

 

わたしの中では兄が行く手を阻み、母の愛を取っている感じがしたので、兄をそこからどかして自分がそこの位置に立つ方法しか思い浮かびませんでした。

 

「そうだよね。でもそれはすごく大変だよね。本当は、もっと簡単にできるんだよ。」

 

そう言って、根本さんは兄をどかすことなく母の目の前にひょこっと顔を出し、愛嬌いっぱいに笑顔で手を振っていました。

 

「ね、簡単でしょ。こうすれば良いんだよ。」

 

母に愛されるためには、みんなの輪に入るためには、兄のポジションを奪わなければならないと思っていました。そこに用意された椅子は1つだけで、競争で勝った人だけがそこに座れるのだと思っていました。

だから、わたしはずっと、母からの関心を得て、母から愛されるためには、兄との比較競争で勝って、兄の立っている場所に自分が入り込んでいかなければならないのだと思っていました。

 

「無邪気さを抑えなければならなかったんだね」

 

本当にその通りだと思いました。

子供ながらの無邪気さや愛嬌で、母親にこっち見てよ!とできたらよかったのに。兄との比較競争の中でひとりで戦ってきたので、求める愛情は同じはずなのに、そこには愛嬌も無邪気さも抑圧し、誰にも助けを求めず、一人突き進んでいく自分しかいなかったのです。

 

そして、ワークでは、わたしの前に兄が立ち、その後ろに母が立って、わたしが兄の方に歩いていくことでスタートしました。そして、兄の目の前にいったら、ひざまずくよう言われました。

 

兄のところに歩いて行って、目の前でひざまずきました。

 

「わたしの負けです」そう、言いなさい。

 

涙が溢れて止まりませんでした。

負けないようにがんばってきたのに。

負けたら皆からの愛や関心が得られないと思って頑張ってきたのに。

「負け」は、私の中では死と同じものでした。

負けてしまったら、わたしはまた一人になってしまう。

誰にも見てもらえず、誰にも愛してもらえなくなってしまう。

負けとは、自分をまた、孤独感、疎外感、無価値観に沈み込ませていくものでした。

だからこそ、負けることなんてできませんでした。

負けることなんて、許されませんでした。

 

「負けを認めたら、どうなってしまうんだろう」

 

そんな思いが頭の中を駆け巡りました。

でも、どこかで、もうそんな苦しい生き方もやめたかったのだと思います。

負けを認めた先を見てみたいとも、感じました。

そしてそれができるのは、皆がいる今でしかできないとも思いました。

 

「わたしの負けです」

そういったとき、長年のせき止めていた思いが溢れてきました。

悲しいし悔しい気持ちもありましたが、どこか心の荷物が下りたような、「もう戦わなくていいんだ」とほっとした自分がして、どこか安心した気持ちにもなりました。

 

でも、さらにここで、こう言われました。

「お兄さんに、謝りなさい」

 

ずっと苦しい思いをしていたのはわたしなのに、どうしてわたしが謝らなければいけないんだと思いました。

むしろ、あやまってほしいくらいなのに。

それくらい、辛い思いをしてきたのはわたしなのに。

嫌だ、言いたくない。

こんなに辛い思いをしてきたのに、どうして、なんで。

 

戸惑いと混乱と抵抗で、気持ちがぐしゃぐしゃになっていました。

嫌だ、嫌だ。という思いが強くでてくる反面、

もう、抵抗することをやめて身をゆだねようとも思いました。

もう十分頑張ってきた。そんな気持ちにもなりました。

 

「ごめんなさい」

 

そうお兄ちゃんに謝った時、どうしようもなく泣けてきてしまって、子供のようにワンワン泣いている小さな自分が心の中にいました。

ああそっか、わたし、本当はずっと謝りたかったんだと思いました。

一人で勝手に敵対視して、一人で勝手に孤独になって、一人で勝手に殻にこもって。

一人で勝手に競争して、一人で勝手に傷ついて、一人で泣いて、怒って、拗ねて。

 

もしかしたら、手を差し伸べてくれたことがあったかもしれません。

もっと頼ってほしいと思ってくれたこともあったかもしれません。

でも、そんな兄の全てを拒絶して、そんな兄に嫉妬して、嫌って、向き合おうとしてきませんでした。

本当は、ずっと、兄に謝りたかったのかもしれません。

もう、意固地になることなく、素直に自分の負けを認めて、素のままの自分でいたかったのかもしれません。

今まで素直でいられなくて、辛い思いをさせてしまってごめんなさい。

 

兄に謝ったことで、ようやく自分をつないでいた鎖がとれたような、ようやく自由の身になれたような、そんな気持ちがしました。

ようやく、自分はこの競争から解放されたのだと思いました。

 

そして、根本さんが兄役の方に、「そんなわたしを見てどんな気持ちがしましたか」とたずねました。

その方が「僕だってあなたを羨ましいと思っていた」と言ってハグしてくれた時、なんだ、同じことを感じていたのか、と思いました。もう、競争しなくてもいいんだと、そんな安心感を感じました。

そして「そんな二人を眺めている母はどんな気持ちだと思う?」と聞かれて、母役の方を見上げたとき、「大好きな二人が争っている姿を見るのは心が痛む思いがしたし、辛かったんだろうな」と思いました。母にとっては、きっと、同じくらい大好きで大切な存在同士が傷つけ合っているのを目の当たりにする辛さもあったのかもしれません。

 

母役の方が兄とわたしを抱きしめてくれたとき、比較競争なんて、しなくてもよかったのかもしれないなと、感じました。

 

そんなふうにして、わたしのセッションは終わりました。

終わりに、根本さんから言われた言葉がとても深く心に響きました。

 

「比較競争を手放した先には、リーダーシップがあるんだよ」

 

今まで比較競争に使ってきた自分の才能や能力を、今度はそれを必要として待っている人に使っていってあげるんだよ。

もう、比較競争している暇なんてないよ。

 

比較競争に意識が向いている時、自分の能力やエネルギーは全て内側に向いており、それが本来の姿ではなく抑圧されているようにも思えました。

今、本業にも向き合い、そして心理カウンセラーとしても一歩を踏み出そうとしている時にもらったその言葉は、根本さんからの素敵な「はなむけの言葉」のようにも感じました。

 

比較競争を手放した先へ。

兄への負けを認め、懺悔したことで、自由の身になりながら。

自分の能力や才能を、それを必要とする方へ与えていけたらと思います。

 

長くなってしまったので、今回は2部に分けて書こうと思います。

次回は、隠し続けてきた、女性の敵である大嫌いな自分について。

今までずっと抵抗があり書いてこれなかったのですが、

リトリートでそんな自分をさらけ出す勇気が持てたので、それについて書いていこうと思います。

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【ご感想】個人カウンセリング 初回モニターセッション

こんばんは。

心理カウンセラーのみらいです。

 

2月からお申し込みを開始した、個人カウンセリングの初回モニターセッションを受けてくださった方から、ご感想をいただきました。

 

カウンセリングを通して、自分が何かを与えるよりも、相手の中にある魅力やエネルギーを自分が感じて何かを受け取っているような感覚になりましたし、こうやってご感想をいただけるのはやっぱり嬉しいことだなあと、読みながらじんわりと感じておりました。

 

今回、なぜ当カウンセラーを選んでくださいましたか。

 

モニター募集をされているお弟子さんの投稿のなかで、いちばん目に止まった(直感で選んだ)のが最初のきっかけで・「誰にも言えない悩みを抱えている」「とにかく話を聞いてほしい」の項目がじぶんに当てはまっていて、その「受容」メインのスタイルにほっとしたこと・「本質を見つける」という価値観に共感したこと・「SNSで猫の写真に猛烈にいいねを押している」のプロフィールに癒されたことなどを決め手にさせていただきました。

 

 

カウンセリング中の、カウンセラーの印象について教えてください。

 

まばゆくて美しい方だなぁ、と感じました。とても優しくて愛の大きな印象があり、それでいてクライアントを圧倒させることがなくて落ち着く、という印象でした。あと、話を聞いてくださってる時も、お話されてる時も、表情が本当に素敵です。

 

 

今回のカウンセリングを受けてみて、良かった点や印象に残っている点を教えてください。

 

「安心・安全な環境で」とみらいさんが仰っていたのが印象的でした。本当にそんな感じがしました。じぶんで気づいていなかったような想いを、短時間で掬い上げてくださって、セッション中も、セッション後も、たくさんの気づきがもたらされるのがとても良かったです。セッション後に、「溢れるままに」とくださったメールを拝見して思ったことですが、セッション中も、その想いが脈々と自然に流れていたように感じます。それも、とても印象的で素敵でした。

 

 

モニター期間で駆け出しではありますが、わたしにとってはどのタイミングでもカウンセリングにかける思いは同じであると感じています。

今の自分が提供できるものは、余すことなく心をこめて提供させていただきたいなと、感じております。

 

2月のモニター募集はおかげさまで満席となり、スケジュールの都合で増席予定は現時点ではありませんが、3月にもモニター募集をする予定ですので、もし少しでも気になる方がいらっしゃったら是非、お話しに来てくださいね。

 

ご感想、本当にありがとうございました!

 

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ブログの感想、ご相談、ご質問などあれば、是非ご利用ください。

 

 

 

 

 

【2月】【満席】個人カウンセリング モニター募集について

こんにちは。

心理カウンセラーのみらいです。

 

今回、個人カウンセリングのモニター募集を開始させていただくことになりましたので、お知らせいたします。

 

*御礼*

2月分のモニター募集枠は満席となりました!お申し込みくださり、誠にありがとうございました。

2月はスケジュールの都合で増席の予定はたてておりませんが、増席する場合には再度ブログ、SNSにて告知させていただきます。

3月にもモニター募集を行う予定ですので、どうぞよろしくお願いいたします。

※お申し込みいただいた方には順次連絡させていただきます。

 

 

プロフィール

はじめまして。

根本裕幸さんお弟子8期生のみらいと申します。

以下に簡単にではございますが、プロフィールがありますのでご一読ください。

※自身の幼少期やどのような道を歩いてきたかなどについては一部ブログで取り上げております。もし気になる方がいらっしゃったら、是非ご覧ください。

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こんな方におすすめ

・カウンセリングというものを受けたことがないけれど、悩みがあって誰かに話を聞いてほしい人。

・カウンセリングを受けることに抵抗はあるが、気になっている人。

・慢性的な悩みや生きづらさがあって、悩んでいる人。

・つい、一人で抱え込んで頑張りすぎてしまう人。

・誰にも言えない悩みがある人。

・誰かに話しを聞いてほしいけれど、周りを頼ることができない人。

・どこにも逃げ場がなくて、助けが欲しい人。

・自分らしい生き方を探していきたい人。

・とにかく話を聞いてほしい人。

 

わたし自身、カウンセリングというものはどこか怪しくて、気軽に飛び込んだり悩みがあるからといって簡単に利用できるようなイメージではありませんでした。

ですが、周りに相談できる性格でもなく、ずっと一人で悩みや苦しさを抱え続けて燃え尽きてしまった経験がありました。

実際にカウンセリングを利用してみると、想像していたようなものではなく、悩みを誰かに共有できる安心感や、自分を知るためのツールとしてとても有意義なものでした。

誰かに自分の悩みや感情をアウトプットするだけでも感情は癒されていきます。また、わたし自身がひとりで向き合うことの難しさや限界も体感してきたからこそ、今一人で悩んでいる方がいらっしゃったら、是非一度お話をしにきていただければと思います。

 

カウンセリングの特徴

わたしのカウンセリングでは、お話を「聴く」ことを中心に行っていきます。

悩みや感情というものはそれを認めアウトプットしていくことで癒されていきます。

カウンセリングを通してそこにある感情を掘り下げ、見つめていけたらと思っています。

また、「悩み」というものは、その人の人生においてそれだけ大きな感情を動かすものであり、その人にとってそれだけ大切で、重要なことだからこそ出てくるものだと思っています。そして、その悩みの奥にはその人の「本質」があり、その悩みをもつに至った「愛」が隠れていると思っています。

カウンセリングを通してその奥にあるその人の「本質」や「愛」を探しに行くお手伝いができたらと思いますし、悩みの答えはすでにその人の中にあるとも感じています。ひとつひとつの事象や感情を丁寧に見ていきながら、その答えを探すお手伝いをできたらと思っています。

 

日程・時間

2月は以下の日程で行う予定です。(※適宜増減あります)

1回のセッション時間は45分間です。

 

・2024/02/08 19:00-19:45 ご予約済

・2024/02/16 21:00-21:45 ご予約済

・2024/02/21 21:00-21:45 ご予約済

・2024/02/23 10:00-10:45  ご予約済

・2024/02/26 21:00-21:45  ご予約済

・2024/02/29 21:00-21:45 ご予約済

 

お申込みいただき、ありがとうございました。

 

セッション方法・料金

・オンラインセッションのみの募集となります。(Google Meet使用)

・モニター期間中は初回セッション無料となります。

お申込みフォーム

※2月分の受付は終了させていただきました。

以下からお申込みをお願いいたします。

※お申込みいただいた時点で既に予約が入っている可能性があります。予約の可否については概ね48時間以内に連絡させていただきます。

※「カウンセリング規約」「注意事項」については必ずご確認いただき、同意いただけた場合のみご予約をお願い致します。

カウンセリング規約

・セッションで知り得た内容やプライバシーに関することについて、本人の許可なく第三者に伝えることはありません。

・キャンセルの場合は必ず前日までにご連絡をお願い致します。

・ご連絡のないキャンセルにつきましては、今後のご予約をお断りさせていただく場合がございます。

・事前連絡がない場合、セッション当日 開始時刻を10分過ぎても入室がない場合はキャンセルの扱いとさせていただきます。

注意事項

・精神科や心療内科に通院されており、投薬治療を受けている場合、カウンセリングを受けること自体が症状不安定のリスクになる可能性があるため、原則としてご利用はご遠慮いただいております。何卒ご了承ください。

・未成年の方のご利用はご遠慮いただいております。

・個人セッションをご利用いただくのは、予約いただいたご本様のみとさせていただきます。

・セッション終了後にアンケートをお送りしております。今後の活動の参考と、個人的な励みになりますので、 もしよろしければご回答をお願い致します。

・その他、何かご不明な点などございましたら、お問い合わせフォームよりご連絡ください。

 

 

「どうせ誰も助けてくれない」という心理

こんにちは。

心理カウンセラーのみらいです。

 

「どうせ誰も助けてくれない」

わたしは心の中でずっと、この思いを抱えながら生きてきました。

 

何かきっかけがあると、

「どうせ誰も助けてくれない」

「みんな敵なんだ」

そんな思いが溢れ出してきて、周囲に心を開けなくなり、相談することもできず、むしろ敵意まで抱くようにもなり、勝手に自分から孤立していくという経験が今までにも何度かありました。

 

そんな状況になる度に、いつもしんどくて、ずっと孤独で、「どうにかしたい」「どうしていつもこうなってしまうんだろう」と、ずっと悩んでいました。

 

今日は、わたしが慢性的に抱いてきたそんな思いについて、お話ししていこうと思います。

 

思い返してみると、わたしは学生の頃からこの思いを感じていたように思います。

 

自分のコミュニティーにいる人たちに対して、

何か問題がおきたり、ネガティブな感情がわきあがってきたりすると

「どうせ、誰も助けてくれない」

「どうせ、みんな都合が悪くなったら手のひら返して裏切るんだ」

「どうせ、みんな敵なんだ」

そんな思いがぶわっと溢れ出してきて、途端に周囲に心を閉ざし、誰にも助けを求めず、誰にも近寄らせず、一人で悩みや不安を抱えて過ごしていました。

 

そして、

「どうせ、誰も助けてくれないんだ」

「どうせ、みんな敵なんだ」

そんな思いを抱えているからこそ、「大丈夫?」と誰かが声をかけてくれたとしても、「大丈夫」と自らシャットアウトしてしまい、せっかく手を差し伸べてくれたとしてもその手を払いのけ、寄り添おうとしてくれた人たちからも目を反らし、背を向けることしかできませんでした。

そして、そこからさらに自ら孤立し、孤独を強めて生きました。

 

でも、自分から孤立しているはずなのに、その孤独は自分にとって、とても辛くてしんどいもので「本当はこうなりたいわけじゃないのに。」と、自ら作り出した状況に苦しむ日々が続きました。

 

本当はわたしだって、みんなに相談したり、助けを求めたりして頼りたい。

「助けて」って、言いたい。

「こんなことに困っていて、すごく悩んでいるの」って、誰かに聞いてほしい。

みんなの輪の中に入って、みんなと関わり合っていたい。

 

 

孤立なんて、したくない。

 

 

「どうせ誰も助けてくれない」

そんな思いがあることで、わたしは自分が本来築きたかった関係とは真逆の関係を築いていっていました。

そして、自分が本当に望む関係はこんなものではなかったと、心のどこかでは分かっていたからこそ、いつもその解離に苦しんでいたんだと思います。

 

だから、友人や同僚が悩みや困ったことをちゃんとまわりに相談して、みんなからのサポートを受けて、ひとつの輪の中にいる光景を目の当たりにすると、「いいなあ」「本当はわたしも、そんな関係を築きたかったのに」と嫉妬が生まれ、その輪の中に入れていない自分の存在を強く自覚してしまい、その光景から目を背けたくなる気持ちにもなりました。

 

そして、周囲の人に対して「どうせ誰も助けてくれないんだ」と思うからこそ、次第に自分の周りにいる人たちとの関係は薄れていき、より遠い場所にいる人たちとのつながりを求めるようになりました。

でも、たとえ遠くにつながりを持ったとしても、その思いは変わらずにもっているので、結局は誰にも相談はできないし、最終的にはどこにも自分の居場所を感じることができないという状況になっていました。

 

 

「誰か、助けて」

真っ暗闇の中で、必死に誰かに助けを求め、いつかどこかで誰か味方になってくれる人がでてきてくれるんじゃないかという絶望にも似た淡い期待を抱えながら、一人孤独に一生懸命走り続けている。

誰にも心を開けず、誰の手をとることもできず、自ら全てを拒絶していた自分は、そんなイメージでした。

 

自分が望む方向ではない方へと突き動かしてしまうこの思いを、わたしはどうして抱えるようになったのでしょうか。

そして、どうしてわたしは今でも、その思いを抱え続けているのでしょうか。

 

いつから周りに助けを求めなくなったのかを思い返してみると、小学生の頃のことを思い出しました。

 

わたしは小学生の頃にいじめにあったことがあります。

もしかしたら、周りを信頼しなくなったのは、この頃からだったのかもしれないなと思いました。

 

自分がいじめを受けたこと自体については、その後何年もかけて向き合って癒してきたので、自分の人生の一部として消化できた感じがありました。

 

ですが、今わたしが感じている「どうせ誰も助けてくれない」という思いを通して、あの時のわたしが取り残してきた絶望感があったことにも気がつきました。

 

それは、当時、自分の身近にいた人たちに対する思いでした。

 

直接は関係ないのに、それまで仲良くしていた人たちが、ある日突然、その場の雰囲気や流れにのっていじめ側にまわっていくのを目の当たりにしたことがありました。

また、いじめには加担していない人たちも、関わりたくないと、見て見ぬふりをしたり、急にスッとわたしから離れていく空気感を身を持って感じていました。

急に自分の周りからスーッと人がいなくなっていくような、一人ポツンと真ん中に取り残されたような、そんな気分でした。

 

それまで普通に話していたのに、今は誰も目を合わせてくれないし、誰も関わらないようにしている。同調して加担する人もいるし、誰も助けてくれない。

 

わたしの中にあったのは、その時感じた周囲への絶望感だったんだと思います。

 

当時のわたしが感じたのは、

どうせ、誰も助けてはくれない

どうせ、周りは裏切っていなくなる

都合が悪くなると手のひら返して逃げていくんだ

どうせ、みんな敵なんだ

そんな感情だったんだと思います。

 

 

そして、その時の感情がずっと未消化で心の奥深くにあり続けるからこそ、今までもずっと周囲に対してそう思っていましたし、その思いを増強させるような出来事も何度かありました。

 

わたしの中で解決していたと思っていた過去の出来事の側面に、まだ取り残していた大きな感情があったことに気づいた瞬間でした。

 

 

過去の出来事で感じた感情は、その全てを消化したり癒しきる必要はないと思っています。

 

そのとき必死に生き抜いてきたからこそ感じた感情であり、逆にそれがあったからこそ生き抜いてこられた側面もあると思うからです。

また、そのときの経験や感情があったからこそ見えてくるものがあったり、その人の "今" を間違いなく形作っているものでもあるからこそ、その人にとって、とても大切な感情でもあると思うからです。

 

だからこそ、そこにどんな感情があったとしても、その人にとって大きな問題にならずに過ごせているのであれば、積極的に見にいって癒したり消化したりしなくていいんだと思いますし、少なくとも自分にとって今はその時期ではないんだと思います。

 

わたし自身も「どうせ誰も助けてくれない」という思いを長年抱えて生きてきましたが、不都合を感じたとしてもその都度なんとか乗り越えてこられましたし、「もういい加減どうにかしたい」「自分を変えたい」という気持ちにまでは至りませんでした。

 

でも、いろいろなことを経て過ごしていくうちに、自分の生きたい生き方や在りたい在り方がわかってきて、だんだんとその思いを抱えている自分が苦しくなってきて、「もう変わりたい」「もうこんな思いを抱えて生きていたくない」と強く感じるようになりました。

 

だからこそ、今、もう一度自分の過去に向き合う勇気を持つことができたんだと思いますし、わたしにとっては 「今」がその時期なんだと思います。

 

そして、どんな感情であれ、人が抱き続ける感情には何かしらの理由があると思っています。

 

そして、そこにはきっと、自分を苦しめるためではなく、自分を守るためにその感情を抱き続けることを選択し続けてきたのではないかと思います。

 

わたし自身、どれだけ孤独を感じて辛くても、その感情を手放さずに持ち続けてきた理由がありました。

 

それは、「どうせ誰も助けてくれないんだ」という思いを抱き続けることで、あの時の自分がそれ以上傷つかなくていいようにしてきたんだと思います。

そうやって、自分自身をずっと守ってきたんだと思いました。

 

だからこそ、その感情を持つようになった自分や、今まで持ち続けてきた自分を責めるのではなく、理解してあげることができるような気がします。

 

そんな経験をしたのなら、そう感じてしまうのも仕方ないよな。今まで守ってきてくれてありがとう。と、今まで頑張ってきた自分を労ってあげたい気持ちです。

 

これからまた、あの時の思いを認め、許し、受け入れていこうと思います。

 

そして、もうそう思わなくて良いんだと、自分の中に腑に落としていけたらと思っています。

そして、その先にはきっと、その思いを手放せた自分が待っているのだと思います。

 

手放せた先の自分はきっと、

まわりを信頼できて、まわりに助けを求めることができるようになっているのだと思います。そして、まわりからも信頼されて、頼られるようにもなっているかもしれません。

そして、そこにいるのはもう、輪の外から孤独に見つめている自分ではなく、輪の中にいて安心して明るく楽しそうな自分なんだと思います。

 

これから向き合っていく自分自身と、今も向き合い続けている方々へのエールになればと思い、書きました。

 

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

 

 

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・モニター募集について

2月上旬からモニター募集を開始します。

わたしのカウンセリングではお話を「聴く」ことを中心に展開していきます。

悩みの奥深くにある出来事や、ずっと蓋をしていた感情、見たくなかったけど一歩踏み出そうと思っていることなど、一人では難しいところに、一緒に見に行くお手伝いができたらと思っています。

「カウンセリングを申し込む勇気はなかったけれど、なんだか気になっている。」

「誰にも話せないことで悩んでいて、話を聞いてほしい。」

「とにかく話を聞いてほしい。」

「どんなカウンセラー(orカウンセリング)なのか気になる。」

等々、どんな内容でも大丈夫です。

もしご縁があれば、ぜひお話しに来てください。

※募集ページ完成後、こちらでお知らせします。

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